●コンスタンツ公会議 コンスタンツこうかいぎ
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ローマ=カトリック教会の第16回の公会議。1414〜1418年に南ドイツのコンスタンツで開かれた。神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力により,ピサの教皇ヨハネス23世がカトリック教会の統一の回復をおもな目的とし,あわせて異端の根絶と教会改革をはかるために召集した。出席者は聖職者のみで600〜700人を数え,ほかに各国の君主・諸侯も参集して,中世最大の公会議であった。その出席者のなかではイタリア人が圧倒的に多く,そのため伝統的な一人一票制による決議方式に対して他国民の出席者から反対の声が強くあがり,出席者はイタリア・イギリス・ドイツ・フランスの四国民団に分けられて,それぞれの国民団が一票決権をもつことになったが,のちに枢機卿団とスペインにも一票決権が与えられた。
【教会統一の回復】1378年以後,カトリック教会にはアヴィニョンとローマに教皇が分立しており,この教会分裂の事態を解決するために,1409年のピサ公会議はアヴィニョンのベネディクトゥス13世とローマのグレゴリウス12世の廃位を決めるとともに,ミラノ大司教を教皇に選んでアレクサンデル5世としたが,前二者はこの決定に従わず,ために三教皇が併立することになった。コンスタンツ公会議はアレクサンデル5世の後継者であるヨハネス23世に退位を迫り,同教皇は他の二教皇の退位を条件にいったんそれを承諾したが,会議の混乱と解散を期待してコンスタンツから逃亡したために,公会議は同教皇を廃位した。グレゴリウス12世は退位を承認し,それを拒否したベネディクトゥス13世は廃位された。公会議は1417年枢機卿オッド=コロンネをマルティヌス5世として新教皇に選び,ここに教会分裂は39年間で終息することになる。コンスタンツ公会議は,教皇よりも公会議が優越するとの宣言をしたことでも知られる。公会議主義と呼ばれるこの原則は1431〜1449年のバーゼル公会議によっても主張されるのであり,15世紀におけるヨーロッパの一つの重要な思想的潮流をなす。
【異端審理と教会改革】異端の問題で公会議が取り組まねばならなかったのは,ウィクリフ・フスらの教説の審理である。ウィクリフはすでに故人であり,イギリスでもローマでも異端の判決が出されていたので,それを正式に確認するだけでよく,公会議は1414年彼の教説のうち45カ条に有罪の判決を下した。それにもとづき,ウィクリフの遺体は掘り返され,その著書とともに焼かれることになる。フスはこの時皇帝ジギスムントの通行安全証を得てボヘミアからコンスタンツに来ていたが,牢獄に入れられた上で審問された。彼の神学はウィクリフの影響を受けているところが多く,彼は自己の教説の撤回を拒否したので,1415年ウィクリフに引き続いてその教説の30カ条に異端の判決が下され,同年7月6日彼は焚刑に処せられた。しかしこの処置によって異端は根絶されるのではなく,1419年ボヘミアでフス派の反乱がおこり,それはフス戦争へ拡大することになる。教会改革の問題は,異端問題以上の重要性を与えられていたが,若干の決議がなされ,マルティヌス5世が各国の君主と課税などについて協約を結んだだけで終わり,実効ある成果は生み出されなかった。コンスタンツ公会議は,おもな目的とされた教会統一の回復には成功したが,ほかの二問題については実質的な成果をあげることができなかったと言ってよいのである。
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