●金光教 こんこうきょう
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幕末には黒住教・天理教・如来教・本門仏立宗など,民衆的な創唱宗教が相次いで誕生した。金光教もまた,そうした歴史の変革期に備中国(岡山)の百姓であった川手文治郎(かわてぶんじろう,別名金光大神)によって創唱された教派神道系の新宗教である。ことに方位や日柄などいっさいの俗信を否定し,「実意丁寧(じついていねい)信神心」といわれる,合理的で自覚的な生き方を勧めた。それは人間本位の信仰であり,信仰において個人化・内面化を指向する新しいタイプの宗教であったところに特色があるとされている。文治郎は,1814年(文化11),備中国浅口郡占見村(現岡山県浅口郡金光町大字占見)で,百姓香取十平の二男として生まれる。幼名は源七。12歳で遠縁にあたる川手粂治郎の養子となり,名を文治郎と改めた。勤勉な働き者で,40歳過ぎには田畑合わせて4段3畝余の土地を持つ,村でも上位に入る農家になっていた。しかし身辺は,義父・義弟・それに自身の長男・長女・二男が相次いで死に,また飼い牛までが2年続けて同じ日に死ぬなど,「17年間に7墓」をつくるという不幸に見舞われた。そのうえ,1855年(安政2),42歳の厄年には,自分も「九死に一生」という重いのどけ(扁桃腺炎)にかかり病床につく。しかし,病気平癒の祈祷中,突然神がかりとなり,〈心徳をもって神が助けてやる。−−五月朔日,験(げん)やる。金神,神々へ,礼に心経百巻今夕にあげ〉(金光大神御覚書)との神のことばを初めて聞く。以後,文治郎は1883年(明治16),70歳で死去するまでことあるごとに神の「お知らせ」を受け,〈何事も仰せどおり〉(同覚書)との奉仕の生活を貫くことになったのである。立教は,42歳の厄年の体験から4年後の1859年(安政6)10月21日である。この日初めて神名「天地金乃神(てんちかねのかみ)」の名が表れ,〈家業をやめてくれんか。世間にはなんぼうも難儀な氏子あり〉(同覚書)−−−こんな神のことばがあったことによる。金光教では,この神の知らせを「立教神伝」と呼び,この日を立教の日としている。このときから文治郎は神の知らせを人々に教える「取次(とりつ)ぎ」を始め,そのための取次ぎ所「広前(ひろまえ)」を自宅に開いて,早朝から夜まで信者の悩みを聞き,神意をうかがい,相手に応じて現実的な解決策を示しながら,自身が得たおかげを説いた。また文治郎は,このことからのちに自ら金光大神(こんこうだいじん)を名乗るようになった。その教えによれば,〈人間は神の氏子〉であり,その関係は〈氏子あっての神,神あっての氏子〉である。しかし,その氏子は〈天地の間に氏子おっておかげ知らず,神仏の宮寺社,氏子の家宅,みな金神の地所。そのわけ知らず〉(同覚書)だという。民間での金神は,たたり神として畏怖される存在だったが,金光教が説く天地金乃神は天地を支配する最高神,愛の神的な救済神である。この真の神とその働きを知らないところに人間の不幸と悪が生じると教え,当時の人々の生活を支配していた年まわり・日柄・方角などの俗信を,力をこめて否定した。こうしてひたすら神意にそった人間本位で合理的・開明的な生き方を勧めた。初期の信者については,立教してからの7年間に取り次いだ者は475人で,その内訳を見ると,1860年(万延1)では郡内,それも広前の置かれた大谷の農民が中心だったが,1862年(文久2)には郡内32人,部外64人となり,国外は15人,うち岡山在住の武士7人となっている。近在の農民を中心に信者の層が広がっていったことがうかがえるが,しかし他方,信者の増大につれ神職・山伏や当局の圧迫が強くなっていった。けれども,金光大神の権力に対する態度は,神の権威をタテに〈金神広前では京都ご法どおりのことはできません〉と毅然としていた。1873年(明治6),戸長から神前の撤去を命じられたときには,〈世はかわりもの,5年の辛抱いたし……〉(同覚書)との知らせを受けてこれに従い,ひたすら時世の変化するのを待った。このように政治権力と信仰のあいだに一線を引く姿勢は近代的宗教の先駆けをなすものとして高く評価されている。教団本部:岡山県浅口郡金光町大字大谷270 祭神:天地金乃神・生神金光大神 教典:『金光教教典』(金光大神の自伝的教義書「金光大神御覚書(おんおぼえがき)」はじめ,「お知らせ事覚帖」「金光大神御理解集」から成る。)教勢:教会・布教所1,682,教師4,295人,信者47万0,646人(『宗教年鑑』昭和57年版による)
〔参考文献〕村上重良校注,金光教本部教庁編『概説金光教』1972
『民衆宗教の思想』日本思想大系67,1971,岩波書店