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●コロンブス

ヨーロッパ イタリア共和国 AD1446 両シチリア王国

 1446/1451〜1506 イタリア出身の航海家で,アメリカの発見者。毛織物と居酒屋を営むドメニコの子としてジェノヴァに生まれたとされるが,出生には異説が多い。コロンブスの幼時期については詳しい考察はされておらず,相当な学識を有し,文法に詳しく,ラテン語に通じ,図画設計にも精通していたとされている。家業につきながら,早くから航海に従事していたらしく,キオス島を訪ねたり,イギリスや北海,アイスランド方面にもでかけたとされているが定かではない。1479年リスボンに移って結婚し,義父から航海についての資料を得,また当時の地理的知識,ことにイタリアの学者トスカネリの意見などによって,大西洋を西航すればインドに達すると考えるようになった。ポルトガル王ジョアン2世に援助を求めたが拒絶され,1484年にスペインに入ってアラゴン王フェルナンド2世,カステリア女王イザベルに接近したが,ここでも確約は得られなかった。しかしスペインのグラナダ占領後,イザベル女王との交渉に成功し,インド航海を実施することになった。第一回航海(1492〜1493)は船3隻,乗員1,200人で,8月にパロス港を出発し,カナリー諸島を経由して西航した。船員が航海について不安を抱き反抗を企てたが,それを抑えて航海を続け,10月12日バハマ諸島の一つに到着,これをサン=サルバドルと名づけた。今日のサン=サルバドル島と推測される。それからバハマ諸島・キューバ・ハイティ(ヒスパニオラ)などの島々を探検した上,ハイティ島に植民をとどめて1493年1月に帰国の途に着き,途中リスボンに寄ったのち,3月にパロス港に戻った。この航海の成功により,スペイン王室から優遇を受け,発見地の提督総督に任ぜられるなどの特権を授けられた。第二回航海(1493〜1495)は,船7隻,乗員は1,500人にのぼり,探検家のほか官吏・農民・坑夫・職人らもおり,植民の目的が明確に表れている。9月にカディスを出発し,カナリー諸島を経て南寄りに進路をとり,11月に小アンティル諸島の一つドミニカ島に着いた。それから列島を北上し,ハイティ島にいたった。前回残してきた植民は全滅していたが,島内を探検し,またジャマイカ島を発見している。そのほか,キューバ島南岸の調査,プエルトリコなどを探ってハイティ島に帰った。その地に設けた植民間の混乱を収拾した上,1495年6月にガティスに帰った。第三回航海(1498〜1500)はいろいろな事情で遅れたが,1498年5月6隻の船で企図された。マディラ・カナリー・ヴェルデ岬諸島を経て西航し,小アンティル諸島の最南端トリニダート島に着き,その対岸の南アメリカ地方にまで足を踏み入れた上,沿岸に沿って西航し,転じてハイティ島に向かった。そこの植民のあいだに反乱がおこっていたので,その処理に追われているあいだに,本国からの査察官は彼に不正行為があるとして1500年スペインへ送還された。送還後,彼の疑いは晴れたがすべての地位は剥奪された。最後の第四回航海(1502〜1504)は船4隻,乗員150人をもって計画された。カナリー諸島を経て,西インド諸島のマルティニク島に行き,さらに西航して初めてアメリカ大陸のホンデュラスに着いた。それから中米沿岸を航行しパナマ付近まで行き植民を企てたが,見込みがないと判断して帰国の途に着いた。途中遭難したが1504年11月スペインに帰った。帰国後は不遇で,病気と貧困に悩まされみじめな生活を送った。地位改善のため王室と交渉中,1506年バリャドリードの地で病死した。コロンブスの実績はアメリカ発見につきるが,それは西に向かえばインドに着くと信じ,期せずして新大陸を発見したのである。西インド諸島・南米・中米などの一部を発見・探検したが,死ぬまでに新大陸とは知らず,インドの一部と信じていた。

〔参考文献〕C.ヴエルリンデン,今野一雄訳『コロンブス』文庫クセジュ,1972,白水社

林屋永吉訳『コロンブス航海誌』1977,岩波書店

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