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●コルホーズ

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 ソ連の集団農場のこと。大規模社会主義農業の生産協同組合をいう。

【三つの形態】歴史的にみて,コルホーズは[1]トーズ[2]コンムーナ[3]アルテリの三つの組織形態をもっていた。[1]トーズは,土地の協同耕作組合で,最も水準の低い萌芽的集団経営形態であり,1919年に創設された。1925年には全コルホーズ数のうち24.1%,1929年6月には60.2%を占めたのが,1933年には3.7%に減じ,1940年には0.3%となった。[2]コンムーナはトーズと対照的に,いっさいの生産手段が共有化されたのみならず,穀物倉庫や家屋まで共有化され,個人的副業さえ認められず,生産物はすべて平等無差別の原則で組合員に分配された。1918年に創設され,1933年に消滅した。全コルホーズ数のうち,1918年には61.7%を占めたが,1925年には10.6%,1929年6月には6.2%と減じた。[3]アルテリは,現在のコルホーズの唯一の組織形態で,基本的な生産手段の共有と集団的労働に立脚する経営形態で,限られた範囲内で私経営の余地を残す。私経営地として与えられるのは,0.25〜0.5ヘクタールで,少数の家畜・小農具の私有が認められている。1918年に創設,当初はコンムーナより数が少なかったが,1919年には全コルホーズ数の58.3%,1925年65.3%,1929年6月83.6%,1933年96.3%,1940年99.7%を占めるにいたった。

農業集団化】1923年,レーニンは「協同組合について」のなかで,すでに農業の社会主義的集団化の必要を説いたが,本格的な農業集団化が始まったのは第一次産業5カ年計画初期で,その基本的完了は第二次5カ年計画の終期である。すなわち,1927年12月第18回党大会で農業の集団化が決定され,1928年6月コルホーズ代表者大会を開催,10月第一次5カ年計画が実施に移されて,社会主義工業化政策が推進されるとともに,ネップ期に成長した富農(クラーク)を絶滅し,農業の社会主義化を遂行するためにその集団化政策が推し進められた。1928年11月,農作業の機械化を促進するための機械トラクター=ステーションの設立,1930年1月5日の「集団化の速度と集団農場建設に対する国家の補助について」の布告とともに,農業集団化は具体化され,コルホーズに対して5億ルーブルの融資がなされて国家の負担による耕地整理の実行が保障された。こうして,1932年には農民経営の61.5%がコルホーズ化され,約1,500万戸の農家が総播種面積の75.5%を含む21万1,000のコルホーズに結合された。その生産高も1928年の総農業生産高の3.3%から,76.1%へ上昇した。

農業集団化の障害とその後の変化】農業集団化は従前の農業機構をまったく破壊しようとしたもので,社会の質的変革でもあったから,一方では社会的混乱を引きおこした。極貧農を除くすべての農民は高税に悩まされ,富農とみなされたものは,財産・土地を没収され強制労働所に送られた。多くの農民が逃亡し,また反抗した。したがって農業生産は低下し,1930年〜1931年には飢饉がおこった。しかし,集団化は強権をもって進められ,1937年4月までに全農家の93%,2,500万戸の農家が集団化され,その播種面積は全播種面積の99%,1億1,700万ヘクタール,その生産高も全農業生産高の90%に近づいた。1949年からコルホーズの統合が行われ,その数は1937年24万9,000,1940年23万6,900,1954年9万,1968年3万6,000,1981年1万6,000と変化した。個々のコルホーズは大型化し,その構成農家戸数・農地面積は増大している。1940年1コルホーズあたり農家戸数81,農地面積490ヘクタールであったのが,1968年には,農家戸数420,農地面積6,100ヘクタール(播種面積は3,000ヘクタール)となった。コルホーズが技術的経験と経営技術を身につけ一本立ちできるようになると,1958年MTSは廃止され,その農業機械はコルホーズに売却されて,修理技術ステーションに改組され,1961年設立のサユーズ=セリホズ=チエフニカ(技術公団)の一部局となった。