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●コリントス

ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD 

 中央ギリシアとペロポネソス半島を結ぶ地峡(コリント地峡)の南端に位置した古代の都市国家。最盛期には人口約10万人で,アテネについでギリシア第二のポリスであった。新石器時代から今日まで,この地域の居住区には幾度かの変遷がみられる。新石器時代にはアクロコリントスの丘の麓にアイオリス系の先住民が居住し,青銅器時代には海岸に移動して貿易を行うようになった。ミケーネ王権下のコリントスはホメロスによって“富めるコリントス”と呼ばれているが,それは多分海岸地帯に存在したのである。前1100年ごろアルゴスから侵入したドリス人によって征服されたが,征服者は再び内陸部に定住した。これが古典期のコリントスの基礎になった。前800年ごろ村落が統一され都市国家が成立した。このころから幾何学様式の壺の輸出が盛んになり,いわゆるコリント様式が発達してくる。コリントスの陶器は前6世紀にアテネ製品に追い抜かれるまで地中海地方で絶対的優位に立っていた。この時期は商業的繁栄と同時に領土的拡大も行われた。バッキアダイと呼ばれる貴族たちの寡頭政のもとでケルキュラシュラクサイ(シラクサ)に植民市が建設され,西方との貿易に便宜をはかった。また造船事業も活発となった。北方に進出してメガラ地方南部を占拠し,地峡部の支配権を確立したのもこのころである。前657年ごろキュプセロスと一族の僭主政が始まり,コリントスの繁栄は頂点に達した。ペリアンドロスサロニカ湾とコリント湾のあいだで船を移動させるため,地峡を横断する陸上輸送路を建設した。前582年の立憲政府成立後も繁栄は続いた。しかしスパルタとアテネの興隆はコリントスを相対的に弱体化させた。ペロポネソス同盟に加盟しながら,比較的自由な立場を保ち得たのは,交通の要衝としての立地条件とともに,同盟第一の海軍国のためであったが,そのいずれもアテネがデロス同盟の盟主として海軍力を増強し,メガラを掌中に納めるにいたって揺らいできた。前5世紀前半の中立的外交は失敗に終わり,前459年にコリントスはアテネと戦った(第一次ペロポネソス戦争)。そしてケルキュラポテイダイアをめぐる両国の紛争が直接の原因となって「第二次」ペロポンネソス戦争が勃発した。戦争はコリントスに大きな被害をもたらし,前404年のアテネ降伏もコリントス復興の開始とはならなかった。アテネの徹底的破壊を主張して容れられず,コリントスはスパルタから離れていった。いわゆる「コリントス戦争」ではアテネ・アルゴス・テーべと結びスパルタの専制支配と対決した。このころからコリントスでは流血革命が頻発して,民主政と寡頭政が交互に繰り返された。カイロネイアの戦い(前338)に勝利したマケドニアのフィリッポス2世は,コリントスを新しいヘラス連盟(コリントス同盟)の召集地とし,これ以後,この都市はギリシアの政治の中心地となり,ヘレニズム時代を通じて産業や商業も再び盛んとなった。ヘレニズム王朝の交代に伴って都市の支配者も頻繁に代わった。前243年にアカイア連邦に参加。長くマケドニアの支配下にあったが,前196年,第二次マケドニア戦争におけるローマの勝利はコリントスを含む全ギリシアに自由を与えた。しかしアカイア連邦とローマの対立は,ローマの報復を招き,前146年コリントスは完全に破壊された。前44年にユリウス=カエサルによってローマ植民市として再建され,アカイア属州の首都となった。キリストの使徒たち(とくにパウロ)が訪れたのは1世紀中ごろである。古代のコリントスは地震と蛮族の侵入によって6世紀に破壊されてしまったのである。