●御霊 ごりょう
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非業の死を遂げたりこの世に怨みを残して死んだりした人の霊魂で、よく祟りを示す。ただし、本来的意味は霊魂一般の尊称であったと思われるが、のちに祟りをなす霊魂をさすようになった。また御霊を怨霊の意味と同意語に使用される場合が少なくないが、人間社会に災いをもたらす怨霊が祀られることによって、かえって悪霊邪鬼邪神類を鎮め排除する力をもった霊魂を御霊とし、怨霊とは区別する必要があろう。その御霊およびそれを中心とした御霊信仰は、祖霊および祖霊信仰と表裏一体の関係にあり、前者の祖霊・祖霊信仰が人々の願望するところの正常なものであるのに対し、後者の御霊はむしろ人々が避ける異常な霊魂といえる。しかし表裏一体の関係にある祖霊と御霊とは、古代以来今日にいたるまで認めることができ、日本人の霊魂観を端的に示しているといえよう。
【御霊会】諸々の災いをなす怨霊を鎮めるための祭りが御霊会であり、『三代実録』の863年(貞観5)に記載された御霊会が初見である。当時、疫病の蔓延をはじめとする社会不安や、幼少の天皇と藤原氏の進出に伴う政争、律令体制の崩壊などの政治体制の不安定さを背景として、疫病や災害の起因が怨霊によるものとされ、それを鎮めるべく国家的事業として京都の神宗苑において御霊会が催されたものである。このとき祀られた霊は、崇道天皇・伊予親王・藤原夫人(吉子)・橘逸勢・文三宮田磨ほか1名、都合6人の霊であり、いずれも政治的に失脚し非業の死を遂げた人々の霊であった。のちに菅原道真・吉備真備・井上皇后など、必ずしも定まってはいないものの、新たに2霊が加わり、八所御霊と称され、上御霊社・下御霊社の祭神として祀られて今日にいたっている。
【御霊信仰の展開】御霊信仰はのちに祇園信仰・天神信仰・八幡信仰などとも結びつき、今日の民俗宗教の形成に大きな役割を果たしてきた。とくに祇園信仰と八幡信仰との結びつきが顕著である。祇園信仰は京都八坂神社を中心として流布した信仰であり、行疫神である牛頭天王を祭神としている。八坂神社においても御霊会が催され祇園御霊会と称されている。970年(元禄1)を初見として、今日の砥園祭にいたっているが、これは夏祭りの代表的なものといえよう。つまり御霊会が疫病の蔓延する夏期に行われているごとく、御霊書信仰は夏型・都市型の祭りを成立させ、普及させたといえる。一方、御霊のもつ荒々しい性格は、親神に対する子神という意味の若宮信仰と結びつき、諸信仰のなかでもとくに若宮信仰が強調されている八幡信仰と結びつくことになった。若宮は若々しい霊威の優れた神とされる一方で、親神さらには統禦神に服しながらも、その統禦から逸脱することがあるとする観念が一般化し、こうした観念が御霊と若宮との結びつきをより一層強めたといえる。今日、死霊や祀る人のいない霊がもとで祟りがおきた場合に、若宮八幡として祀ることが多いのは、御霊・若宮・八幡の三つの信仰が密接に結びついていることを示すものである。
【御霊から和寺ヘ】怨霊が祀られ御霊神となった場合は、荒々しい性格は残るものの、悪霊悪神などを排除する善神として機能することになり、広範な信仰圏を成立させる場合が少なくない。たとえば、新潟県新発田市の五十志(いそし)雷神社の場合も、1713年(正徳3)に処刑された名主大竹与茂七の霊を祀ったもので、火伏せの神として信仰されている。それは1719年(享保4)、1895年(明治28)の大火が与茂七火事と称され、与茂七の怨霊が起因すると考えられたためで、その霊を祀ることによって、かえって火伏せの神とされたのである。こうした御霊から和雷化した信仰は各地に認められ、なかでも四国宇和島の和雷神社の信仰はよく知られている。また御霊から和雷化することによって、流行神的様相を帯びて広がる点も、御霊信仰が示す特色の一つといえよう。
〔参考文献〕柴田実『中世庶民信仰の研究』1966、角川書店
宮田登『生き神信仰』1970、塙書房
宮田登『近世の流行神』1972、評論社