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●コモン=ロー

ヨーロッパ 英国 AD 

 現行イギリス法の史的法源の一つをなすものであり,エドワード1世の治世ではすでにこの語が用いられていたとされる。地方的慣習法に対する一般的慣習法を意味し,イギリス全土・イギリス人全体に共通な法が表されている。なおコモン=ローの語はカトリック教会での一般的な法(教会法あるいは寺院法)を意味する jus communeから借用されたものとされる。

【成立】この法は国王の裁判所(13世紀末には王座裁判所・民訴裁判所・財務裁判所の三つに分かれる)と,国王裁判官が地方で開廷する巡回裁判とにおいて蓄積された実際の判例にもとづいて成立しかつ発達した。したがって議会などの立法機関によってつくられて条文の形に整備された制定法とは,法体系を異にするといえる。ローマ法の伝統を継承した大陸諸国では制定法の発達が著しかったが,実例と経験を重んじるイギリス人の特性は判例法となって示された。中世ですでにこれに関する著述が現れているが,最重要なものは13世紀の裁判官ブラックトン著の『イギリス法律慣習論』であり,そこには多数の判例が引用されている。本書が法律家を刺激して1289年に“年書”が出されることとなった。これは私的判例集であり,国王の即位年によって編別され,ヘンリ8世の1535年で終わる。また普通法の発達は弁護士の成長を促し,14世紀の初めにロンドンで法曹学院の出現をみる。リンカーンズ=インミドル=テンプルなどの小学院に分かれるが,判事・弁護士養成のためのカレッジとなり,普通法を専門とする人たちのギルドでもあって,ローマ法の侵入を防ぐ役割を果たした。他方15世紀末に大法官府裁判所が生まれ,そこでの判例が蓄積されて衡平法が成立する。それは本来普通法の立場からは救済し得ない訴訟を取り上げて,国王の良心と慈悲を名目に正義と衡平を実現し,普通法裁判所の不備を補うことをめざしたが,16世紀に入って独自の法体系たる体裁を整えるとともに,普通法はこれと対立せざるを得なくなった。

【発展】両者の抗争は17世紀において最高潮に達するが,それより前に,ルネサンスの流れに沿って全欧的に復活された古典的ローマ法との闘いが認められる。ヘンリ8世はローマ法の普及に好意的態度をとり,それを専門とする法学者の勢力は大きかったが,法曹学院を本拠とするコモン=ロー法律家たちの組織が強固であったために,ローマ法の継受がイギリスでは成功しなかった。ローマ法の侵入に対して衡平法は普通法を補完する役割を果たしたが,両者はやがて正面切っての抗争を余儀なくされた。それがジェームズ1世の治世下における,王座裁判所首席判事コークと大法官エルズミャーとの有名な論争である。1616年に国王の裁断によって,普通法と衡平法とが相抵触する事項に関しては後者が優越する(すなわち衡平法の勝利)が決定された。だが普通法裁判所は国王の裁断にそのまま服したわけでなく,衡平法裁判所との抗争はその後もつづく。やがてピューリタン革命期に入るが,議会と普通法とは16世紀以来の同盟者であった(ローマ法との闘いが両者を約束させている)。長期議会においてもコモン=ロー法律家の勢力が強かったので衡平法裁判所の非が盛んに攻撃され,共和政に入ると改革の試みがなされた。しかし成果はあがらず,王政復古が到来して改革されないままのもとの制度への復帰に終わり,独立した二大法体系の対立が以後も継続する。このことは裁判に救済を求める国民にとっては不都合が多かったので改善を迫られていたが,実行に移されるのは容易でなかった。19世紀に入り,1832年の選挙法改正を契機に法と制度の改革が時代の流行となるが,その傾向は司法制度にも波及し,1873年に議会を通過した裁判所法をもって普通法裁判所と衡平法裁判所の対立を廃し,一つの最高裁判所を設立,それまで規制力のあった普通法の法理と衡平法の法理とが,いずれも同一裁判所で適用されることになった。このようにしてイギリス司法裁判制の近代化が実現されたといえる。とくに契約法・不法行為法の大部分は今なお判例法である。

〔参考文献〕高柳賢三『英米法の基礎』1954,有斐閣

大阪谷公雄『英米法概論』1955,世界思想社

新井正男『イギリス法講義』1962,文久書林

C. H. S. フィーフット,伊藤正己訳『イギリス法−その背景−』1952,東京大学出版会