●コミンフォルム
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1947年から1956年までのあいだ活動したヨーロッパ諸国共産党・労働者党情報局の非公式の略称。1943年のコミンテルン解散以後,国際共産主義運動は路線の統一に必要な国際機関がなくなっていたが,第二次世界大戦後の冷戦の激化とともに,1947年3月12日のトルーマン=ドクトリンや同年6月5日のマーシャル=プランの発表など,アメリカがソ連に対する対抗策を積極化したのに対し,同年9月22〜27日,ソ連共産党の呼びかけで,ソ連・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・フランス・イタリアの9カ国の共産党・労働者党がポーランドで会議を開き,コミンフォルムの結成を決議した。この第1回大会では,ソ連共産党代表のアンドレイ=ジュダーノフが国際情勢に関する報告を行って,「二つの陣営」の対立を強調するとともに,各国共産党の情報交換や活動の調整が審議された。その結果,「情報局」の創設,機関紙「恒久平和のために,人民民主主義のために」の発行,「情報局」をユーゴスラヴィアのベルグラードに置くことなどを決めた。さらにこの大会で,ユーゴスラヴィア代表がブルジョワ政府と協力したことについてフランス・イタリアの共産党を厳しく批判したが,1948年6月にルーマニアで開かれた第2回大会では,ユーゴスラヴィア共産党を除く各国代表が参加し,ユーゴスラヴィア共産党の反ソ的態度が民族主義的偏向という理由で激しく批判された。ユーゴスラヴィア共産党は自らコミンフォルムからの離脱の道を選んだため,「情報局」はルーマニアのブカレストに移された。もっとも,このユーゴスラヴィア共産党の除名問題について,1956年の第20回ソ連共産党大会は誤りであったことを自己批判した。1949年11月末に開催された第3回大会は,ソ連共産党代表エム=スースロフの報告にもとづく「平和擁護と戦争挑発者との闘争」に関する決議,イタリア共産党書記長パルミロ=トリアッティの報告にもとづく「労働者階級の統一と共産党・労働者党の任務」に関する決議,ルーマニア労働者党代表ゲオルギュー=デジの報告にもとづく「殺人者とスパイの権力のなかにあるユーゴスラヴィア共産党」に関する決議を採択した。コミンフォルムはコミンテルン(インターナショナル)の復活ではない。コミンテルンが国際共産主義運動を統制する指導機関の性格を帯びていたのに対して,コミンフォルムは第二次世界大戦後の各国共産党・労働者党の飛躍的発展に対応し,単に情報交換と活動の調整を目的としたヨーロッパ地域だけの組織に過ぎないはずであったが,ややもすれば,ソ連共産党のィニシアチブ強化は避けられず,そのため日本共産党も,一部の指導者が抱いていたアメリカ軍の占領下での平和革命が可能であるとする幻想に対して厳しい批判を受け,この批判を契機として日本共産党は分裂した。その後コミンフォルムは平和擁護運動なども進めたが,国際共産主義運動の健全な発展を阻害する要因を除去しなければならないという反省が生まれ,1955年にソ連がユーゴスラヴィアと和解するとともに,国際情勢の変化や各国の共産主義運動の発展を理由に,1956年4月17日に解散した。