●コミューン
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一般にコミューンとは、フランスの自治体を意味する。ただ11〜13世紀の中世ヨーロッパにおいて、都市自治を求める市民の運動もコミューン運動と呼ばれ、市民は互いに強く結びついた誓約団体をつくって都市領主と対抗し、自治権を認められるにいたった。またフランス革命期の1792年8月10日事件でパリに成立した革命的市政は、パリ=コミューンと呼ばれ、ジャコバン派の拠点となっている。つまり、コミューンは自治体の意味以外に民衆による革命的な市政府の意味があり、とりわけ1871年のパリ=コミューンは、「最初の労働者の政権」といわれるように世界史的な意義をもっている。
1870年に普仏戦争が始まり、フランス皇帝ナポレオン3世がスダンでプロシア軍に包囲されて降伏すると、パリの民衆は決起し、プロシア軍と徹底抗戦するため国防政府を樹立した。しかし、プロシア軍は進撃してパリに迫ったので、1871年1月28日、国防政府はヴェルサイユ休戦条約を締結し、さらに2月12日、西フランスのボルドーに国民議会を召集した。そこではオルレアン派のチエールが国家元首に選出され、チエール政権はやがてパリに帰還した。この間、パリ民衆は国民軍中央委員会のもとに国民軍を組織して武装を解かず、チエール政府側との対立が続いた。こうした緊迫した状況下に3月18日、チエールの命を受けた政府軍はパリ市内の国民軍側の大砲の奪取をはかったが、かえって民衆の激情をかい、民衆蜂起が発生してチエールをはじめとする政府軍はパリを捨て、ヴェルサイユに遁走した。この政治的な空白のなかに、3月26日パリで選挙が行われ、28日パリ=コミューンが宣言されたのである。パリ=コミューンでは、パリ20区選出の議員により評議会をはじめ諸委員会が設立され、政教分離・公教育の世俗化・労働条件や賃金の改定など急進的な改革が推進された。しかし、組織的には、ブランキ派・インター派・ジャコバン派などに分かれ、民衆の組織も労働組合のほか、各区ごとの監視委員会や国民軍・クラブなど多様であり、統一的な指揮系統を欠いていた。このため、フランス銀行の占拠・地方との連帯などに着手することができず、いたずらに時日を過ごした。やがてヴェルサイユのチエール政府軍は反撃に転じ、5月21日にはパリ市内に入った。そして5月28日のペール=ラシェーズ墓地の戦闘までの1週間にわたる市街戦ののち、パリ=コミューンは崩壊した。パリの市街戦は凄惨をきわめ、チュイルリー宮をはじめ多くの建物が火炎に包まれた。5月末までに犠牲者は数万人にのぼり、さらに軍事法廷に引き出されたものは4万人にのぼるといわれる。以上のような血ぬられた戦闘をへて、第三共和政が樹立されてゆくのである。
パリ=コミューンの意義については、マルクスやレーニンによって、プロレタリアの最初の社会主義革命と規定された。確かにその指摘は重要であるが、前述したようにコミューン内部はインター派やプルードン主義に分裂し、しかも生活圏を基盤とする自律的な民衆運動が展開して強固な組織体とはならなかったのである。チエール政府軍との戦争指導の面でもその弱さを露呈した。したがって、パリ=コミューンは初めての社会主義革命を志向しながら、結局、未完の革命に終わったのである。
〔参考文献〕アンリ=ルフェーヴル/河野健二・柴田朝子訳『パリ=コミューン』1968、岩波書店
柴田三千雄『パリ=コミューン』1973、中央公論社