●古墳文化 こふんぶんか
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古墳が築かれた4〜7世紀の文化,すなわち古墳時代文化をいう。古墳時代といい古墳文化といい,単なる墓をもって時代や一時期を画する文化を代表させるのは不当であるという意見がある。だが,古墳は単なる古い墓ではなく,これが築かれた時代の政治・経済・社会・文化のすべてを象徴する記念物なのである。したがって古墳には,狭義の文化はおろか,往時の政治・経済などあらゆる分野を解明しうる鍵が秘められているといえる。すなわち,古墳の名をもって時代や文化を代表させることは,十分に意味があると考えられる。古墳文化は,農耕・鉄器文化としての弥生文化を継承・発展させたものである。したがって,両文化は連続的で,一線を画し難いというべきである。にもかかわらず,両文化は基本的性格において大きく異なっている。すなわち,農耕・鉄器文化という大枠で一致するものの,弥生文化が個性的な地域文化の集合体であったのに,古墳文化は全国的規模での,統一的様相を色濃くもつ文化だったのである。
【古墳文化成立の基盤】弥生時代後期(2,3世紀)の日本列島には,小地域圏が共存していた。土器を指標にするなら,東日本のそれは縄文で飾られるのに,近畿や中部山地では櫛描文,中国地方の凹線文,北九州が無文様と,文様一つとらえても差異が大きかった。このような地域圏が形成されるのが,土器製作に関する情報が相互に交流しなかったことによることは明らかだから,当時は人びとの交流が少ない,むしろ閉鎖的な小社会群だったと考えられる。
後期も末近くになると,土器とその製作技術の交流がにわかに活発化する。九州に近畿地方の,関東に伊勢湾岸や近畿地方の土器が流入するのはその一例である。すなわち全国的規模での人の交流が活発化したのである。それとともに各地に弥生土器にみた個性は急速におとろえ,類型的な土師器へと転化する。いろいろな根拠から,これら一連の動きの中心は近畿にあったと考えてよい。そして一定の型をもつ古墳が各地に出現するのはその直後のことであった。すなわち古墳文化とは,近畿地方を中心とする全国的規模のネット=ワークの成立を背景に成立し,やがて強固な国家的統合を果たすにいたる,激動期に展開した文化だといえる。それだけに時間の経過とともにその内容もめまぐるしく変化したので,この文化はその特色によって,前期(4世紀)・中期(5世紀)・後期(6世紀)に細分される。
【前期の文化】前期古墳には鐘・碧玉製品のような呪術的な品のほかに,装身具・武器・農工具などの実用品も副葬されている。しかしこれらは,福岡県沖ノ島など同時代の祭祀遺跡から出土する遺物の組成と一致しているから,一括して非日常的な意味をもっていたと考えられる。前期古墳の被葬者には,まだ司祭者的性格が強かったのである。しかもこれは,どこの前期古墳にも等しく認められる点からすれば,各地の首長は司祭権を保持し続けたと考えられる。すなわち,彼らは大和王権の影響下にはあったが,自立性を失うには至っていなかったのである。大和を盟主とする小国連合の存在を考えてよい。
一方,畿内などの主要古墳に隔絶性が強くみられるのに,地方のそれには周囲に数多くの埋葬施設があったり,小古墳を伴ったりする例が多い。このような集団墓的様相は,ムラビトと密着した階級的に未成熟な首長が多かったことを物語る。
最近の分析結果が正しいとすれば,当時わが国の鉄素材は,他の品とともに大和王権の手で大陸からもたらされていたらしい。これらは王権のもとで製品化された。鏡などの青銅製品や碧玉製品も同様だったが,甲冑の出来が不揃いであることが示すように,在来技術を駆使しての作業だった。これらは各地の首長のもとに配布された。もちろん物資の流れは一方的ではなく,若狭の塩など各地の特産も見返りとして流通したと考えられる。これが大和王権はもちろん,各地の首長の権力強化に役立ったことも想像に難くない。
農民の住居は,従来の楕円プランから方形プランへと変化した。だが農作業にこれという革新は見られない。群馬県下の諸例をみれば,この時期は畑作も盛んで,米だけでなく多くの雑穀が栽培されていたことを知る。
【中期の文化】4世紀の後葉以降,古墳副葬品に金銀を使った装身具などが加わり,たちまち普遍化する。武器・武具の量も増加する。金色の装具で身を飾る風はそれまでの日本のものではなく,朝鮮に定着した北方系の習俗に由来する。そこにはもはや司祭者的な姿は見出せず,武人としての王者のイメージが強い。ミニチュア化した農工具や,滑石製模造品のような非実用品も目立ちはじめるが,これらは支配下の諸部族から供献されたものだと考えられる。滑石製模造品は,別に祭祀遺跡から多量に出土するようになるが,その組成は葬送用のそれとは一致しなくなる。宗教的情操の高まりとともに,祖霊祭祀と神まつりとが区別されるに至ったと考える向きが多い。
中期に入るころから,大陸よりもたらされたのは金銀の製品などばかりではなかった。鍍金や鉄器などの新製作法や土木など多様な技術が導入され,5世紀半ばには須恵器生産も開始された。これらの多くは,渡来人に負うところが大きかった。新たに導入された技術などにより,大和王権の基盤が著しく強化されたことは,かつてないほどに壮大化した中期古墳の存在からもうかがい知ることができる。
5世紀後半期に入ると,それまで各地で続けられてきた巨大古墳築造の中絶現象が見られるようになる。在来豪族の没落を物語るといってよい。おそらく,圧倒的に優位な立場を得た大和王権が,従来の在地豪族を介する間接支配を廃し,直接支配を志向するに至ったことに由来するのだろう。したがって,立地を異にして新たに出現する古墳の被葬者は,大和王権の官人的色彩を強めた人びとだったに相違あるまい。支配者層の堀をめぐらす居宅は,ムラから離れた地に築かれていた。和歌山県鳴滝遺跡の例は,そこにクラが集中するさまを明らかにした。
5世紀の後葉を境に廃絶するムラは多く,あらたに立地を変えてムラが出現する傾向がある。これと前後して民衆の住居の煮炊きの場が,炉からカマドへと変化する。鉄器の出土率は高まるが,集落遺跡から米倉などを発見するのは困難である。支配の強化がいろいろな形で民衆生活に影響を及ぼしたのであろう。
【後期の文化】後期古墳は,規模の縮小傾向,横穴式石室の採用,それに爆発的な数の増加などによって特色づけられる。多葬と結びつく横穴式石室は,死者の世界をそこに想定するもので,他界観念上の一大変化の産物である。石室内の多量の須恵器は,貝殻や魚骨が発見される例もあるから,他界での食料をおさめたものだろう。副葬品は当然,死後の生活を予想して選択されたろう。
10万基以上の小古墳がこの時期に築かれたことを思えば,後期古墳がもはや支配者の独占物ではなくなったことも容易に理解される。この群集墳の被葬者に関する解釈もいくつかある。そのなかで,[1]共同体の解体過程で力をつけ,自立性を強めるにいたった有力な家父長家族の出現による,[2]行政・軍事組織の整備とともに,国家機構に組みこまれた官人的階層の増加による,などは有力な見解である。
6世紀には対外関係が悪化したことも絡み,中国・九州地方など砂鉄産地における製鉄が,にわかに活況を呈する。輸入に頼っていた環頭大刀なども国産化し,頭椎大刀のような独自の大刀も創出された。これらの製作者達の組織化も進み,製塩集団の定着に見るように,分業組織も飛躍的に整ってくる。
先進地域の民衆は,それまで支配層の独占物だった平地住居の利用に入るが,東国などでは堅穴住居の生活が続き,地域間の格差が拡大する。