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●古風土記 こふどき

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 713年(和銅6)に,地方の国に命じて風土記を編述せしめ,撰進させた。この官命は,[1]郡郷の名に好字,つまり漢字2字の嘉き字をつけること,[2]郡内の銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫などのものをつぶさに色目を録すること,[3]土地(耕作地またはこれに準ずる土地)の肥沃の状態,[4]山川原野の地名由来伝承,[5]古老相伝の旧聞異事の物語の5細目の言上を命じたものである。当時,執政の中心にあった藤原不比等が地方政治の実態を把握し,自らの手で仕上げた律令政治を徹底化しようとしたねらいから出されたものと考えられる。各国の風土記は,編さんが完成するや,漸次提出されたものと思われる。たが,いったん政府に集められた風土記もやがて失われ,925年(延長3)に再提出が命ぜられている。現在では,いわゆる五風土記しか残らないが,そのほかの風土記は,『釈日本紀』などの古書に引用されて,過文として残る。

常陸国風土記】五風土記のなかで最も古いと考えられるのは『常陸風土記』であるが,これも残念ながら省略本である。しかし,718年(養老2)新置の石城国を陸奥国石城郡としているので,一応養老年間前にその草稿は存在したとされるが,その文体は,四六駢儷体の修辞が用いられ,『文選』などにくわしい藤原宇合やその僚下にあった万葉歌人高橋虫麻呂などが筆録者に擬せられている。『常陸国風土記』は,その冒頭に,〈常陸国司解す。古老相伝旧聞を申すとの事〉と明記するように,風土記撰進の五つの綱目をすべて記すのではなく,とくに古老相伝の物語を中心にまとめていることが特徴である。

播磨国風土記】『常陸国風土記』とともに古いものは,『播磨国風土記』である。716年(霊亀2)新置の和泉監(いずみのげん)を川内国泉郡と記し,また715年(霊亀1)に里を改めて郷とせよという命令が出される以前の里制によっていることなどから,霊亀年間前後の時期にまとめられたものと考えられる。ただ巻首と,それに続く明石郡の条を欠き,また赤穂郡をすべて伝えないが,賀古郡など10郡の記載は,ほぼ完全な形で残されている。播磨では,和銅の官命通り,郡里名に好き字を採用している。ヤケ※注1※の里,土は中の上なり。宅(やけ)と号くる所以は,大帯日子命(おおたらひこのみこと),御宅(みやけ)をこの村に造りたまひき。故(かれ),宅の村という〉(印南郡ヤケ※注1※里条)のように,もとの旧名は宅であったが,好字のヤケ※注1※に改め,またさらに土味として九品の中上であることを示している。地名由来伝承も豊富であり,歴史や神話学・民俗学などの大変興味ある記事を含んでいる。

出雲国風土記】この風土記の巻末に〈天平五年二月丗日 勘造秋鹿郡人神宅臣全太里 国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣広島〉と明記されるように,733年(天平5)完成したものである。ほかの風土記と異なり,在地の国造や郡司層が自らの家に伝える伝承を筆録したもので,『古事記』や『日本書紀』にもみられない独自の神話や伝承を含む。国引きの章や大国主神伝承などはそれであるが,733年にまとめられる背景には前年の山陰道節度使派遣と無関係ではないとみなされている。当時,新羅に対する警戒が強まり,出雲にも天平5年に出雲・神門の二郡に烽(とぶひ)る処を置いたことが知られる(『出雲国計会帳』)。

【豊後・肥前国風土記】この西海道の二風土記は,同一の編さん方針のもとにまとめられたと考えられ,おそらく732年(天平4)に西海道節度使に命ぜられた藤原宇合(ふじわらのうまかい)の命令によったものとみなされている。ただ巻首・巻尾は整えられているが,各郡の記事はあまりにも簡略化され,甚だ不完備なものといわなければならないが,それにしても相当な地名由来伝承をとどめていることは学問的にも有意義である。

【逸文】以上,五風土記以外には古書に引かれて逸文として残るものがある。風土記を引用するのは,既に三善清行の『意見封事(いけんふうじ)』にはじまるが,その多くは平安末期から鎌倉時代にかけてである。仙覚の『万葉集註釈』に五十余条,ト部兼方の『釈日本紀』に六十余条などが引かれている。これらの逸文は江戸時代の考証学者によって集められ研究せられたが,これらをすべて古風土記と称したのである。

〔参考文献〕秋本吉郎校注『風土記』日本古典大系

栗田寛,後藤蔵四部補注『標註古風土記(常陸)』

加藤義成『修訂出雲国風土記参究』

井上通泰『播磨風土記新考』

井上通泰『肥前風土記新考』

井上通泰『豊後風土記新考』

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