●コーヒー店 コーヒーてん
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アラビア語ではマクハーという。コーヒーの語源であるカフワも,コ一ヒー店の意味で用いられる。ふつうマクハーは通りに面してあり,コーヒーや茶が提供される。エジプトでは水タバコが必ずあり,カイロではシーシャ,地方都市ではブーリー,農村ではゴーザと呼ばれる。マクハーは,その周囲に住む人々の交際の場でありサロンでもある。イスラーム世界では酒が禁止されており,客はここでコーヒーや茶を飲み,タバコを吸い歓談しながらさまざまな情報を得る。またそこで仕事の口を紹介されることもあって,庶民の日常生活の中心となっている。かつては夕方になると,ラバーブという胡弓を手にした講談師シャーイルが,アブー=サイドの英雄物語などを夜明けまで語り,マクハーは娯楽場でもあった。現在でも店主は客に巧みに応対し,客は,西洋すごろく・トランプ・チェス・ドミノなどに興じる。そして客のあいだを縫って,靴みがき・雑誌売り・タバコ売り・富くじ売りが出入りする。マクハーには女性客はこない。アル=アルガーニーやムハンマド=アブドゥフらのアラブ民族主義たちは,カイロの下町のマクハーに夜ごとに集まって会合を開き,政治を語り,アラブの歴史について論じた。現在でも文化人たちはマクハーに集まり,文学論や政治論を闘わしており,一般の人々にもこれに参加する場合がある。マクハーは,このような文化的役割も果たしているのである。日本においては,コーヒーは江戸時代初期にオランダ人によって輸入されたが,当時は飲用する者はなく,普及したのは明治に入ってからのことである。明治初期は,まだコーヒーを飲む人間が一部に限られていたため,新聞を閲覧させるミルクホールはあったものの,コーヒーの飲用を目的とした店はなかった。その後洋食が広まるにつれコーヒーを飲む人間も増えて,1886年(明治19)日本橋小網町に“洗愁亭”という最初のコーヒー店ができた。明治20年代に入るとあちこちに洋食店が現れ,コーヒーを飲用する機会が多くなってきた。1888年(明治21)東京下谷黒門町に,中国人鄭永慶の経営した“可否茶館”ができた。これは今の喫茶店の元祖といわれ,店内には玉突き台やトランプ・図書・便箋・封筒まで備えてあり,時間つぶしにもってこいと,文士のあいだで評判になった。1890年(明治23)には,浅草六区のパノラマ館のなかに“ダイヤモンド珈琲店”ができた。明治末には「パンの会」を中心としたフランス帰りの文士や画家のサロンとして知られる銀座7丁目の“プランタン”や京橋南鍋町の大衆的コーヒー店“パウリスタ”などが現れた。大正時代になると,しだいにコーヒーを飲ませる店の数は多くなり,女給をおいてアルコールや洋食なども提供する“カフェ”と喫茶店とに分かれた。喫茶店は広く一般に親しまれ,第二次世界大戦後に急増した。現在は,単にコーヒーを売り物にするだけでなく,名曲喫茶・ジャズ喫茶など種々の特徴を強調する店も多い一方,カフェは,文士・画家といった芸術家や新聞記者の溜り場からしだいに大衆化し,戦後はバーに変わっていった。
イギリスでは17,18世紀ごろロンドンを中心として約3,000ものコーヒー店ができ,文人や政客らがクラブとして利用して,政事談議に花を咲かせていた。一種の社交場として栄えていたが,現在ではパブ pabに変わり,酒類が置かれ手軽な食事もとれるようになっている。
フランスではカフェと呼ばれるが,この呼び名がイギリスを経由して日本に入ってきたため,イギリスのレストランの意味も加わって,日本において女給がいて飲物や洋食を給仕する形で定着したと考えられている。やがてアメリカのバールーム,酒場の意味が混じって,女給のいる酒場となった。またコーヒー店でレコード音楽が流れるのは,フランスの音楽余興つきのカフェをまねたところに始まるといわれる。
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