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●コーヒー

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【語源】「コーヒー」の語源となったアラビア語のカフワは,元来,数あるワインの異名の一つであった。カフワの語根q-h-wの意味は「食欲を減退させること」であるから,酒類が食欲を減退させることと関係があるものと思われる。カフワが飲み物としてのコーヒーの意味に転用され,その意味で定着するようになったのは14世紀以降のことである。一部の中世アラブの言語学者はコーヒーの意味ではキフワと読むことによって,ワインの意味とは区別すべきだと主張した。しかし,その意味では定着しなかった。トルコ語のカフヴェはアラビア語のカフワに由来するものであり,ヨーロッパの各国語へはトルコ語を通じて伝えられた。英語のcoffeeが初めて使われたのは1598年のことであった。「コーヒー」の語源については以上のような純アラビア語起源説のほかに,コーヒー木の原産地と目されるエチオピアのカッファ州に由来するという説もある。しかし,エチオピアでは,飲料としてのコーヒーはバンと呼ばれていること,イエメンにおける飲料コーヒーのその後の発展を考えるとき,カフワがカッファ州に由来する外来語であるとは考えにくい。エチオピアのバンと明らかに同語源と考えられるアラビア語のブンはコーヒーの木またはその実を示すときだけに用いられている。また,アラビアにおいてコーヒーは嗜好飲料とされる以前に薬用飲料として扱われていたが,アラブの最初の薬用コーヒーの記録者として知られている医学者アッラーズー(850〜922)はそれをやはりバンと同語源のバンシュームまたはバンカと呼んでいた。

【発見の経緯】コーヒーの発見譚については粉飾されたさまざまな話が伝えられていて,どれもほとんど伝説の域を出ない。しかし,エチオピアでは古くからコーヒーの果実を生食していたこと,また,そのあとコーヒーの豆とその外殻(果肉)を水に浸した飲料を飲んでいたことも確かなようである。この浸出飲料飲用の習慣はかなり早くから対岸のイエメンに伝えられたにちがいない(11世紀以前)のだが,アラブ側の史料ではずっと後代の特定の人物ということになっている(14世紀の中ごろとか15世紀末など)。彼ら発見者と称されている人々は,みなイスラームの神秘主義者(スーフィー)であった点が共通している。これはコーヒーの最初の飲用者が神秘主義者の各グループであったことにもよるが,後代になってコーヒー飲用の第一発見者を問われたとき,彼らに最も手近な神秘主義者のリーダーを選んで普及者と第一発見者を混同したためであろう。いずれにせよ,このあいだに炒った生豆を粉末にして飲用する焙煎法が発見されたが,これこそコーヒー飲用文化の革命ともいえるだろう。なぜならば,炒ることによって豆は一段と香りと風味を高めるからである。

【イスラーム世界での普及】コーヒーは最初,神秘主義者の長い夜間の勤行(ごんぎょう)を助ける眠気覚ましとして好んで使用された。同じ理由で,メッカの聖モスクやカイロのアズハルモスクの学生や教師たちの飲物として普及していった。コーヒー飲用は,14世紀から15世紀にかけてアラビアからシリア・エジプト・トルコ・イランなどの東方イスラーム世界にひろがった。エジプトにコーヒー飲用を最初に持ち込んだ者はアズハル(学林モスクで,こんにちイスラーム国際大学となっている,1,000年の伝統がある)へのイエメンおよびメッカ・メディナの留学生たちであった。彼らはモスクに付随したこの方面の留学生専用の寄宿舎(ラワーク)に住んでいたが,このなかでエジプトで最初のコーヒーが飲まれた。とくに夜間の声の勤行に献身するさいに飲用されていて,毎月曜日と金曜日の夜がこれにあてられていた。この勤行には一般の信徒市民も参加していたので,やがてアズハル界隈ではコーヒーが市民のあいだに浸透していった。16世紀中ごろのアラブ人によるコーヒーの定義によれば,コーヒーの実の外殻すなわち果肉部(パルプ)を煮立てたキシュリーヤコーヒーと,それに粉砕した炒り豆を加えたものすなわち外殻パルプに種実を加えたブンニィヤコーヒーの二種あるという。この二種類のコーヒーは19世紀のアラブ世界になっても変わっていない。また,現在のイエメンではキシュリーヤコーヒーに肉桂皮やショウガやサフランやカルダモンの実を加えたものが最も多く飲まれている。コーヒーの実の果肉部分には糖分が若干含まれていることもあって,アラビアコーヒーには砂糖を加えない。コーヒーは最初,水や清涼飲料と同様に市中の行商によって売られていた。16世紀末にヨーロッパ人がトルコを訪れて,そこで出会ったコーヒーは行商コーヒーであった。やがてコーヒーの愛飲家の数も増えて都市部におけるコーヒーの大衆化が始まると,メッカにはじめのコーヒーの店が現れた(1475年ごろ)。コーヒー店はアラブの大都市を中心に普及し,やがてイスタンブールに最初の本格的なコーヒー店が開かれるにいたった(1554)。

【メッカ・カイロでの禁止騒動】コーヒー店は客寄せのために歌や音楽や踊りを供するようになった。また,そこはチェス遊びやマンカラとかナルドと呼ばれる一種のアラブすごろくの溜まり場ともなり,もはや庶民にとって欠かせない憩いの場となった。しかし,一部のコーヒー店では享楽的傾向を強め,イスラームで禁じられている酒場の雰囲気を醸し出したり,同じくイスラームで禁じられている賭博が行われる場所でもあったようである。こうした風潮に対してイスラームの教義に厳格な宗教者側から非難の声があがり,コーヒー受難時代を迎えることになった。最初の火の手は聖地メッカであがった。この禁止騷動はヒジュラ暦917年(1511年ごろ)におこった事件である。当時,メッカではコーヒー抜きの夜間の勤行やマウリド(預言者の降誕祭)は考えられなかったが,聖モスク内におけるそのコーヒー飲用の現場をカイロのスルタンによって任命された厳格なムフタスイブ(市場および風紀取締官)兼メッカ駐在マムルーク兵隊長ハーイル=ベクが目撃して,異様な雰囲気を感じ取った。そこで,彼がメッカのコーヒー店の実情を問いただしたところ,かなり享楽的であるうえにイスラームで禁じられている男女混交の場であったり,賭博の場でもあると聞かされて,風紀取締官としての対処を迫られた。彼はただちにメッカの法官や宗教学者や神秘主義者その他の有識者を集めて現行のコーヒーの飲み方が不法であるとの合意をとりつけ,さらに二人の医師を召喚してこの飲み物が心身にとって有害であるという証言をとりつけた。もちろん,これに反論したコーヒー党の学者もいたが,反コーヒー党の急先鋒であった宗教学者アルハテーブなどの画策によってついにメッカにおけるコーヒーの飲用はいっさい禁止されることになった。これによって飲用者はその場で叱責されるとともにコーヒー店はいっせいに手入れを受けて,豆は見つけしだい焼却された。人びとは恐れて家庭内でひそかに飲用を続けたが,これを告げ口されて叱責されたあと,市中を引き回された。メッカの禁令は最終的にはカイロのスルタンの認可と勅令をファトワ(法勧告)の形でとりつける必要があった。しかし,カイロからのファトワの趣旨は次のようであった。〈ザムザムの聖水でさえそうであるがコーヒーに酒を混入して飲むなどは明らかに不法である〉−−−しかし,このファトワによる追認は裏を返せばコーヒーそのものは不法ではなく,メッカのような飲み方が不法であるといっているにすぎない。その証拠にスルタン=ゴーリー(在位1501〜1516)はお膝元のカイロでコーヒーの飲用を禁止することはけっしてなかった。これを知ってメッカの人びとはふたたびコーヒーを公然と飲みはじめた。こうしてこの騒動は一年足らずで終わったが,そのあいだに反コーヒー党の前述のアルハテーブは人びとの反発と反感の標的とされて,次のような非難の詩を浴びた。

 ブンの木のカフワ(コーヒー)が禁ぜられた

 だから君たちはブドウのカフワ(ワイン)をすすればよい

 それ(ワイン)を飲んで不気嫌になり

 禁を計った者(アルハテーブ)を呪うがよい

これは当時の流行詩であるが,この内容からも人びとにとってコーヒーがいかに酒の代償的存在であったかを窺わせよう。カイロにおける禁止騒動はアズハルモスクの教授,シャーフィー法学派のイブヌ=アブドル=ハックがコーヒー飲用の質問状に答えて不法であるとの法勧告を下した(ヒジュラ暦941年,西暦1534年ころ)ことに端を発している。

 不法の法勧告を聞いた反コーヒー党に属する市民は,自然発生的に暴動化して,コーヒー店を襲い,コーヒーカップを割ったり店内の客に暴力を加えたりした。この収拾はコーヒー党に同調的なハナフィー法学派の裁判官イブヌ=イリヤースに任せられた。彼は自宅に人を集めコーヒーを供し,一日中彼らと対話し彼らを観察した。彼はこの結果にもとづいて異常なしとみて旧状に復して可なりとの判断を示した。こうした禁止騷動はそののち,メッカでもカイロでもいく度か繰り返されたが,いずれも長続きしなかった。コーヒー党の見解の骨子は,コーヒーの飲用が精神を活気づけ,宗教的勤行に大いに役立つものであるから,それ自体は禁止の対象にされるべきではないというものである。一方,反コーヒー党の見解には,コーヒーを酒類とみなすコーヒー酒論や,心身に有害であるとする有害論や,踊りや音楽を伴いがちなので享楽防止論,賭け事を伴うとして賭博防止論,宗教的勤行を忘れて無為に過ごす風潮を生むとして怠惰防止論などさまざまである。イラクでは炒った豆は木炭とみなされ,木炭はイスラームの食物規定上,不浄とされるうえ栄養価がないとして木炭不浄論,浪費不法論まで飛び出した。

【世界の国々への広がり】1517年のオスマン=トルコによるアラブ世界の征服は,カイロにおけるコーヒー文化を本格的にイスタンブルに伝える契機となったのである。1554年には二人のシリア人企業家(アレッポとダマスクス出身)によって最初の華麗なコーヒー店がイスタンブールに開かれた。それまでにメッカやカイロのコーヒー店論争を経たのちの設立であっただけに,ここに集まる人びとの多くは礼節を重んずる品の良い趣味人であったらしい(ここは男性だけが集まる所で,給仕には着飾った美少年を配した)。彼らはチェスの愛好家であったり,水タバコの愛飲家であったり,談合好きな人びとなどで,詩人・文学者など才能のある一芸に秀でた者が多く集まった。そこは夜話の中心であり“ウラマー(学者たち)の学校”と呼ばれるようになった。一方そこは,文学論争や政治討論のセンターでもあった。オスマン帝国下のコーヒー店は,やがて政府を批判する民主主義勢力の集会所としての性格を備えるにいたるが,これに対抗するために,教義に厳格な宗教学者の勢力と政府の利害とが一致することになった。彼らはコーヒーを酒よりも害があると考えて敵視したが,ついにモラード3世治下(1603〜1617)においてコーヒー禁止令が出された。しかし,この勅令もメッカやカイロの場合と同様に,実効に乏しく長くは続かなかった。18世紀にアラビア半島で巻き起こったワルビー宗教改革運動はコーランとスンナの原点に帰れと叫びつづけ,以来,厳格派イスラームをもって今日まで知られている。ワッハーブ派(こんにちのサウジアラビアの国教)はタバコの吸飲を激しく敵視したが,コーヒーについてはその飲用を合法と認めたので,彼らのあいだでは今でもコーヒーが多量に飲用されている。イスラーム世界において,コーヒーが酒類の常用を少なくした功績は少なくないと言わねばならないだろう。17世紀にはトルコを経由してヨーロッパに紹介されたコーヒーとコーヒー店が大流行し,そのあいだ,イエメンからヨーロッパへのコーヒー豆の輸出が続いた。当時の代表的な輸出港はイエメンの紅海に面するモカ港であったため,今日モカコーヒーの名前でその名が残っている。イエメンにおけるコーヒーの栽培は秘中の秘とされ,異国人を栽培地にけっして近づけなかった。また,豆は火を通して発芽力を殺してから輸出されていた。しかし,結局はメッカ巡礼のインド=ムスリムやオランダ人などによって苗木がひそかにもち出されて,インドのアラバール地方やセイロン島,ついでジャワ島などで栽培されるようになり,やがて大西洋を渡ってラテンアメリカに広がった。

【飲用方法の多様な慣習】その昔,コーヒーはキリスト教徒によってイスラーム教徒の飲み物といわれていたが,今日の中東においては,紅茶の進出に圧倒されてその飲用は激減しつつある。しかし,ベドウィン(遊牧民)やベドウィン的性格を残している都市部では,かつてのコーヒー飲用の伝統を連綿と引き継いでいる。コーヒーはなによりもベドウィン特有のホスピタリティーと関連している。また,紅茶のサービスと違う点は,きわめて儀式的な意味をもっていることである。それは日本の茶道とも通ずるいわばコーヒー道ともいうべきものである。ベドウィンのテントは男性区と女性区の二つの部分にカーテンで仕切られているが,男性区の中央にはコーヒー(お茶)立て専用の炉端が掘られている(サハラの遊牧民はコンロに似たものをテントの中にもち込む。)コーヒーは客の歓待に不可欠であるため,コーヒ一立て用の燃料は,料理用とは別に男性区のなかにとってある。水と豆は女性区に保存されているので,客がくると仕切りカーテンごしに手渡される。豆は美しく装飾された皮製の小袋のなかに保存してある。来客があると,主人は客の面前で自らの手でコーヒーを立ててサービスする。まず,三本足付きの豆炒り器の上で豆を炒る。この際に攪拌棒で豆をころがす。次に木製または真鍮製の臼のなかに焼豆を入れて,これを杵棒でつき砕く。この際にリズムに合わせてつくのでベドウィンの耳に心地よい音を響かせる。これはテントの主人の腕の見せどころでもある。この音を聞いた者は誰でもコーヒーの招待を受けたと考えてよい。ベドウィンのコーヒーポットはペリカンのくちばしに似た口をもった首長のポットで,真鍮製か銅製である。ふつうは大・中・小と三つ以上揃っているが,このうちの一つに水を入れて沸騰させ,これにつき砕いた粉末を入れる。ポットは火にかけたり離したりして続けざまに3回沸騰させ,これをカルダモンの実の粉末が入っている別のポットに移す。こうしてできたコーヒーは取手のない小型のカップ(深い盃ほどのもの)に注がれて客に廻される。この際にコーヒーを立てた主人は,数個のカップを右手のなかに積み重ねて持ち(左手は不浄と考えられているから),ペリカン口のポットを左手に持ってカップに三分の一ほどコーヒーを注ぐ。差し出された客は数回お代わりをすることが礼儀にかなっている。「もう結構です」といいたい場合は,人さし指と親指のあいだでカップの左右を上下に交互に振って返上するしぐさをするが,それまでは何回でもつぎ足される。コーヒーを立てるのはそのテントの主人であるが,給仕をする者はその家の最年少の子供であることも多い。紅茶についてはとくに儀式的な飲み方はしない。一連のコーヒー立てセットはすべて男性区にまとめてあり,手の届く所に置いてあるが,いずれも伝統的な美しいデザインで装飾が施されている。これに反して茶器の類は時代とともに変化する。ベドウィンのコーヒーには砂糖を入れない。イエメンではコーヒーにカルダモンの代わりにしばしばショウガを入れて飲む。ハダラマウトのサアル族の場合,コーヒーカップは素焼の大型カップである。客は手渡されたカップのうちからすこしだけ飲んで,いったん主人に返す。主人はカップを再び満たして次の客に渡す。また,彼らには無人の聖者の廟を訪れた際など,そこにいくらかコーヒー豆を置いて立ち去る風習がある。これは旅に疲れた通行人がこの豆を利用するようにとの配慮である。その際,コーヒー立てに必要な器具はすべて祠のなかに常備されている。トルコ人は世界にコーヒーを紹介した民族であるが,こんにちでは紅茶の進出が著しく,単に権威を象徴する飲料としてわずかに飲まれている程度にすぎない。紅茶が国内でかなり生産されているのに反して,コーヒー豆はすべて輸入に依存している。このために,割高になるということもコーヒー衰退の原因の一つであろう。アラブでは,今日でも一杯の嗜好飲料を訪問者に供することは欠くことのできない生活慣習の一部となっている。これは東方世界で重視される訪問者歓迎のシンボルである。したがって客がそれを拒否しては非礼にあたる。店やオフィスでも訪問者はまず一杯の嗜好飲料をすすめられる。商談や用件はそのあとで行われる。客や訪問者はまずコーヒーか紅茶かそれともほかの清涼飲料か,どんな飲料を所望するか尋ねられる。コーヒーであればそのあと砂糖を入れるか入れないか,入れるとすれば多いか少ないかなどしつこく聞かれる。

 元来,アラビアコーヒーは砂糖抜きのコーヒーであったが,これがトルコに入ると,何がしかの砂糖が加えられるようになった。これがエジプトに逆輸入されると,砂糖の加減によってビスッカル=ズィヤーダ(砂糖たっぷり),アズブータとかアラッリーハ(少々)などと呼ばれる各種のトルココーヒーとなった。トルココーヒーアラビアコーヒーの場合はミルクを加えたりかきまぜたりしない。トルココーヒーの場合は豆の粉末や実の外殻(パルプ)を煮立てたドロドロになった液をカップにそのまま移すので,澱(おり)がカップの底に沈澱する。これを待ってその上澄みだけをすすって飲むことになるが,しばしばパルプの粉末が口につくこともある。底にたまった澱はカップの受け皿にひっくり返し,ひろげて乾燥させると,そこにひび割れや模様ができる。この割れ具合によってコーヒー占いをする者もいる。エジプトではとくに男女間の未来を女性が占うケースが多い。