●五人組 ごにんぐみ
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江戸時代に領主の命令により組織された隣保制度。武士のあいだにも軍事目的の五人組があったが,百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた。同様な制度の起源は,古代律令制下の五保の制といわれるが,直接には1597年(慶長2)豊臣秀吉が治安維持のために,下級武士に五人組,庶民に十人組を組織させた制度の流れを汲むものである。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのためにこの制度を継承し,さらに一般的な統治の末端組織として敷衍してゆこうとした。『御当家令条』所載の1637年(寛永14)の悪党御制禁の令では,既存の五人組を利用した警察的取締強化を関東甲信地方の地頭代官に命じており,このころにはすでに五人組が幕領を中心としてかなり普及していたことがわかる。典型的な江戸時代の五人組制度は村では惣百姓,町では地主・家持を近隣ごとに5戸前後に編成し,各組に組頭などと呼ばれる代表者を定め,それを名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり,領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)方内争議の内済・年貢確保・法令の伝達周知徹底などをはかった。また町村ごとに五人組帳という帳簿が作成された。これは普通は“前書”として百姓町人が遵守すべき禁令・徳目・義務を,おもに幕府の法令から抄出記載し,その後に組ごとの人別,および各戸当主・村役人の連判を記したものである。
しかし五人組については,“宗門人別改”のような厳重な施行規定が存在していたわけではなく,普及の程度は領主・代官の意図にまかされ,全国的にはさまざまである。概して天領や旗本領あるいは幕府縁故の地では,積極的に五人組制度を推奨・利用する政策がみられたが,大名領のなかには18世紀後半にいたってもまったく組織されていなかった所もある。また“マキ”などの村民自治組織が発達していた地域にも存在しない所が多い。さらにまた,組織されていた町村でも,その形式は各地各様である。たとえば,[1]各組の戸数は,1〜2戸から10戸程度まである。[2]名主・庄屋は編成から除外されるのが普通だが,含まれている場合もかなりある。[3]編成や組頭の選任は,村(町)役人による場合もあれば,寄合協議による場合もある[4]五人組帳の形式も種々雑多であり,前書と村役人連印のみのもの,前書のみのもの,五人組編成の記載のみのもの,印のないものなどがある。[5]前書の条項は50カ条前後が多いが,1カ条の単純なものから150カ条以上の法規集成的なものまで,かなり精粗の幅がある。[6]五人組帳を毎年領主に届け出ていた所がある一方,ほとんど書替えを行わない町村もある,など多様な形態を指摘しうる。
五人組の機能の実態もまたさまざまであるが,概して強力な実効性のある組織であったとはいいがたい。なかには,他出したり潰れた家が五人組帳に記載されつづけている例もあり,五人組が実際の住民構成とはかけ離れた形式的存在となっている場合もしばしばある。また,貢租滞納をはじめとする現実の村方の問題は,村請制の下では,五人組よりむしろ村落規模で合議・責任処理されるのが普通であった。また五人組帳の前書も,その法的実効性がどこまで保障されていたかも疑問である。たとえば,旧帳の前書を形式的に転写しているのみで意味不明となっている場合や,徒らに条項を多くし徹底が不可能になっている場合もあり,また田畑永代売買禁止令のように形骸化した禁令を繰り返しているなど,一般的に前書は飾り物化して,直接的効力は弱かったといえる。また前書は,百姓町人に名主が読み聞かせることが原則であったが,その実行のほども疑問である。
しかし名目的であれ五人組制度が存在していたことは,間接的には名主・庄屋の権威を裏付け,また住民の生活をなんらかの形で制約すると同時に,町村の自治的まとまりを強化することに資した。また五人組帳前書は形骸化していたとはいえ,永年にわたり継承されることにより庶民の思想に根強い影響を与えた。なお,近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが,その遺制が永く存続した地方もある。また第二次世界大戦中の隣組にもその性格は受け継がれていた。
〔参考文献〕野村兼太郎編『五人組帳の研究』1943,有斐閣
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