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●国共合作 こっきょうがっさく

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国の二大政党である国民党と共産党とのあいだの前後2回の協力関係。

第1次国共合作】コミンテルンの「民族・植民地問題についてのテーゼ原案」にもとづくマーリンの指導によって1923年(民国12)6月,共産党は3全大会を開き国共合作に同意した。一方,国民党も1924年(民国13)1月,国民党第1次全国大会においてソ連・容共・労農援助の3大政策の採択を決定し,第1次国共合作が成立した。そこには中華民国の統一と完全な独立の達成のためにはソ連の援助が必要であるとする孫文の意向が働いていた。合作は共産党員が個人の資格で国民党に入党するという形式をとり,ボロディンの党顧問,リタイショウ※注1※・毛沢東ら10名の中共党員の国民党中央委員,中央委員候補就任がそれぞれ実現した。共産党は1925年(民国14)の5・30事件や沙基事件などを通して党勢を拡張したが,8月の国民党左派の指導者であるリョウチュウガイ※注2※暗殺事件は,孫文死後の国民党内部の対立を激化させ,合作体制を動揺させた。11月,反ソ反共を高唱する左派(西山派)が離脱し,蒋介石も1926年(民国15)3月の中山艦事件以後反共的姿勢を明らかにし,北伐の途上,1927年(民国16)4月12日の上海クーデタで共産党員や革命的労働者を虐殺して左派の武漢政府や共産党と訣別した。汪兆銘の指導する武漢国民政府と共産党との合作もまた,武漢政府を支えた唐生智軍の反共化とインド共産党員ロイがコミンテルン指令を汪にみせたことから崩壊する。共産党による武漢政府の掌握,労働者5万人と共産党員2万人の武装,土地革命の推進などの指令内容を汪らは容認できなかったからである。1927年7月,中共中央は武漢政府から脱退し,第1次国共合作は終わった。3年半の合作期間中,中共はコミンテルンの指令に左右され,個人として国民党に入党したため党独自の影響力を行使できなかったが,国民党の名のもとに多数の農民を組織し,のちの革命根拠地の建設を可能にしたのであった。

第2次国共合作】この合作は日本軍の中国侵略が本格化し,抗日が民族的課題となる情況下で実現した。江西の革命根拠地に対する国民政府軍の第5次包囲作戦を突破して長征を開始した中共は,1935年(民国24)8月に八・一宣言を発して抗日民族統一戦線を提唱した。それは十二・九運動や全国各界救国連合会の結成など全国的な抗日気運を高め,1936年(民国25)12月の西安事件につながっていく。陝北の紅軍に対する包囲作戦中の張学良楊虎城が督戦に来た蒋介石を逮捕・監禁し一致抗日を迫ったこの事件は,周恩来の斡旋で蒋が妥協し,蘆溝橋事件勃発後の1937年(民国26・昭和12)9月正式に第2次国共合作が成立した。華北から華中・華南に浸透する日本軍に対して蒋は重慶に遷都して消極的抗日を続けたが,中共は八路軍,新四軍の活躍などによって華北各地に抗日根拠地=解放区を建設し,党勢を拡大した。中共の発展に不安を抱いた蒋は,日中戦争が対峙段階に入っていた1939年(民国28)12月より国府軍を使って陝甘寧辺区と八路軍に対する攻撃を行わせ,1941年(民国30)1月には安徽省南部で葉挺の率いる新四軍を襲撃して壊滅的打撃を与え(皖南事変),1943年(民国32)3月より,胡宗南軍に陝北を包囲させるなど第2次の合作はつねに決裂の危機をはらんでいた。8年間の抗戦が終了したとき,党員121万人,正規軍91万人,民兵220万人,19の解放区の人口1億を数えた中共に対して,国民政府はその支配地域を縮小していた。1945年(民国34)8月,大戦の終了とともに国共両党は日本軍の占領地域の接収をめぐって対立し,蒋介石と毛沢東の重慶交渉が行われて双十協定が締結され,ついで1946年(民国35)1月の政治協商会議の開催によって平和的民主的統一がなされるかにみえた。だが,同年3月国民党中央委員会総会は政治協商会議の決定を否認し,7月に蒋が解放区攻撃を命じたことによって国共内戦に発展し,第2次国共合作は崩壊した。この第2次国共合作において中共は軍事力をもち,国外の指示によらず独自の判断で行動した点で,国民党と対等の立場にあったといえるだろう。

〔参考文献〕石川忠雄『中国共産党史研究』1959,慶応通信

野沢豊・田中正俊編『講座中国近現代史』5・6,1978,東京大学出版会

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