●古朝鮮 こちょうせん
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古朝鮮とは、檀君・箕子・衛氏の3朝鮮をいい、前2者は神話、伝説のなかの国名である。朝鮮の名称は、前3世紀ごろから中国で用いられ、東北方の異民族居住地域の総称であった。漢代になると、儒学者たちは東方崇拝と箕子朝鮮とを結合し、現在の遼寧省方面を朝鮮といった。前108年の漢の4郡設置後、現在の西北朝鮮を朝鮮とし、それ以前の朝鮮を古朝鮮とした。朝鮮で自国名を朝鮮とするのは、高麗時代以後で、この時代に檀君朝鮮を含む3古朝鮮ができた。
【檀君朝鮮】檀君朝鮮の神話を要約すると、次のようである。天神桓因の子桓雄は、人間社会を治めるため、太伯山の頂上に降り、熊の化身である娘と結婚し、檀君王倹を生ませた。檀君は中国の・帝即位50年に、平壌城に都し、初めて朝鮮と称した。国を治めること1500年で、周の武帝が箕子を朝鮮に封じたので、阿斯達の山神となったというものである。檀君神話の中核は、北方のシャーマニズム信仰で、高麗前期までは平壌地方の民間信仰の一つであったが、蒙古の侵略軍と戦う農民のなかに、支配者とは別な愛国心がひろまり、その象徴として、檀君神話が全国的に受け入れられた。檀君朝鮮の神話は、高麗末期に貴族層にも受け入れられ、朝鮮王朝の国号採用にも有力な根拠とされた。19世紀宋以来、民族意識の高揚につれて、壇君は再び朝鮮民族の祖神として信仰された。
【箕子朝鮮】前1122年に、周の武王が殷の王族箕子を朝鮮王に封じた。周の武王は箕子をあがめて家臣とせず、黄河の東方の朝鮮王とした。また、儒教を大成した孔子は、箕子を最も代表的な賢者として尊崇した。箕子朝鮮伝説は、中国の儒者の一学説からおこり、楽浪郡の役人がこの説を受け入れ、3世紀に一段とこの説が発展した。伝説の内容は、箕子が朝鮮王となり、教化したので、理想的な社会ができたというものである。この伝説は、高麗王朝で儒教が隆盛になるにつれ、貴族や知識人に支持され、平壌に箕子の堂や墓がつくられた。朝鮮王国では、儒教が国学となったので、この伝説が史実として政策的にもとりあげられた。しかし、近代以後民族意識が高揚し、自国文化が尊重されるようになると、この伝説は否定された。
【衛氏朝鮮】檀君朝鮮を実在の国家とみ、前3世紀以前の部族連合国家や城邑国家の連合王国をこれにあてる説もあるが、強大な統一国家は衛氏朝鮮から始まる。秦末から中国人が、現在の遼寧省方面の朝鮮に移住していたが、前195年に燕王が匈奴に逃れると、その部下の衛満は1,000余名の者と一緒に朝鮮に亡命し、この地方の中国人亡命者や異民族を支配して王となり、都を王倹(遼陽市説と平壌市説とがある)に定めた。その後、遼東太守は衛満を外臣とし、軍事的・経済的支援を与え、周辺の異民族を征服させた。当時この地方の民族は、青銅器文化をもち、小規模な国家を形成していた。衛満は中国の鉄器文化を背景にこの地方を支配するが、これらの地方勢力を認め、内政は自治とし、その首長を中国人亡命者の指導者とともに国政に参与させ、貴族とした。衛氏朝鮮では、箕子が教えたという“犯禁八条”が実施されていたといい、そのうち殺人・傷害・窃盗の3条項が伝えられている。この3条刑法は、原始的な共同体の社会で広く実施されている刑法で、原始共同体社会を基盤とした国家であることが知られる。前2世紀の後半になると、この地方が発展し、漢に直接朝貢しようとするものや、前128年のワイ※注1※君南閭たちのように中国の郡県になろうとするものが現れた。衛氏朝鮮が、周辺諸国の漢への朝貢を妨害したとして、前109年に、漢の武帝は出兵した。この出兵は武帝が衛氏朝鮮と匈奴との連合を恐れたためとする説が有力であるが、主要な原因は、開発の進んだ衛氏朝鮮を、漢の郡県とするためであった。前108年に、衛氏朝鮮の王族や大臣が漢に内応し、王が殺害されたにもかかわらず、地方豪族や民衆によって、長期にわたり王倹城を死守したが、ついに漢軍に敗れ、衛氏朝鮮は滅び、その故地に漢の朝鮮4郡が置かれた。
〔参考文献〕今西龍遺『朝鮮古史の研究』1970、国書刊行会
井上秀雄『古代朝鮮』1972、日本放送出版協会
