●五代・十国 ごだい・じっこく
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唐が滅亡してから宋が建国するまでの50余年問に,華北を中心に興亡した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝の時代を五代(907〜960)と呼ぶ。五代の各王朝は短命であっただけではなく,その威令のおよぶ範囲も限定されており,江南や四川および華北の一部には,唐末の節度使が自立割拠して建国した呉・南唐・呉越・ビン※注1※・荊南・楚・南漢・北漢・前蜀・後蜀のいわゆる十国が分立していた。五代・十国の時代はちょうど唐宋変革期の中間に当たっており,この分裂・混乱期に中国の社会が新しい時代に向かっての胎動を示したことは重要である。【五代史の推移】五代の政局は非常に複雑であるので,五王朝の興亡を中心に時代的推移を略述する。
[1]後梁(907〜923)建国者朱温(朱全忠,太祖)は黄巣の余党であったが唐に降り,宣武軍節度使となり,やがて哀帝に譲位させて新王朝を建設。都はベン※注2※(開封)。2代末帝のとき,滅亡。
[2]後唐(923〜936)建国者李存勗(荘宗)の父李克用は突厥族の出身で,唐より李姓を賜った。荘宗の時,後梁を打倒して新王朝を建設。都は洛陽。荘宗はやがて政を乱したので李嗣源(明宗)が軍士に擁立されて即位。明宗の治世約8年は五代史の小康の時代と呼ばれ,治績にはみるべきものが多かった。
[3]後晋(936〜946)建国者石敬塘(高祖)は同しく突厥族の出身で後唐の明宗に仕えた。しかし,明宗没後末帝の誅討を受けた為,契丹の太宗に援軍を要請し,後唐を討滅して即位。都はベン※注2※。契丹はこの援助の代償として燕雲16州を獲得したが,これは宋代におげる北患の起因となった。2代の出帝は契丹を軽視したため,契丹の征討を受けて滅亡。
[4]後漢(946〜950)建国者劉知遠(高祖)は同じく突厥族の出身で,石敬塘と共に後唐に仕え,後晋建国後は高祖に重用された。しかし出帝に冷遇されたため,契丹が後晋を討滅したあと新王朝を建設。都はベン※注2※。2代隠帝が政治を乱したため,郭威が軍士に擁立されて新王朝を建設。
[5]後周(951〜960)建国者郭威(太祖)は後漢の残存政権である劉崇(劉知遠の弟)の侵寇を抑えつつ王朝の基礎を確立。都はベン※注2※(開封)。2代世宗は後唐の明宗と並称される五代史上の名君で,内治に治績をあげただけではなく,五代,十国の乱世を統一することをはかり,周辺国家の征討を推進した。しかし世宗は志を果たさずして没し,3代恭帝が9歳で即位した。ときあたかも契丹,北漢の侵寇があり,幼主に不安を感じた軍士が趙匡胤(宋の太祖)を擁立したため,後周は滅亡して五代は終った。
【十国の興亡】五代における十国の存続年代,建国者,首都については表で示したが,これら諸国の滅亡について略述すれば,前蜀は後唐によって滅ぼされ,呉・楚・ビン※注1※は南唐によって征服された。南唐・呉越・荊南・南漢・北漢・後蜀は宋によって征討され,宋の統一が現出したのである。これらの十国の在続年代は五代の諸王朝より長期にわたっており,比較的平和が保たれていたことを示している。
【政治】五代は武人政治の時代と呼ばれる。これは五代,十国の建国者が唐末の節度使の出身であっていわゆる軍閥政治を行ったことによる。これらの軍閥政権は機会があれば勢力を拡大することを計ったから,争乱が相次ぎ,またこの間に北方民族は中国への進出をはかるにいたった。後唐・後晋・後漢の三王朝の建国者がいずれも突厥族の出身であることや,契丹が後晋の建国を援助して燕雲16州を獲得したことは,五代政治史の一面を示している。五代,十国における各国の支配体制は,武力と行政権を持った節度使が中心であるが,彼らは牙軍などと呼ばれる私兵集団を養成し,強力な軍団を形成していた。このため各国君主は,節度使の兵力削減をはかり,一方君主の禁軍(親衛軍)を強化して集権化の方向を策した。しかし君主権が弱体となれば,強大な武力を持った節度使が軍士に擁立されて新王朝を建設することがたびたび行われている。とくに五代の諸王朝は短命であり,下剋上の風が強かったといえる。五代の諸王朝の中,最も短い後漢の存続期問はわずかに4年であり,最も長い後梁も17年であるに過ぎない。このような乱世と武人の専横とは,六朝以来の門閥貴族の没落を決定的にし,時代的転換の一要素となるに至った。五代の宰相として有名な馮道は,乱世において巧みに身を処し,五王朝11君に仕え,宋代の大義名分論的立場からは,非節義漢として非難されている。しかし彼の逞しい生き方には,この時代における有能な政治家のあり方が象徴的に示されているとみることもできよう。
【経済】五代,十国の時代は,中国が分裂して諸小国に分かれたため,各国共に財源が貧弱化したのは当然である。しかも一方分裂・割拠・攻争の激しい世相の裡にあって,軍事費として相当な財源を捻出しなければならない必然性があった。五代の諸王朝では,両税法による本来の税役のほか,時代により各種の付加税を徴収し,また地頭銭,牛皮銭,橋道銭,農器銭などのいわゆる沿徴を課して増収をはかり,十国の一部でも身丁銭米と呼ばれる人頭税などを設けていた。以上の他,五代の諸王朝では,塩・酒などの専売制度を実施して財源の拡充を計り,違犯者を厳しく処罰したが,民衆を苦しめることが多大であった。この間において,後唐の明宗や後周の世宗が検田を実施して税額の均平化をはかったことは注目すべき治績といえよう。 この時代が分裂・争乱の世相であったにもかかわらず,国家間貿易が盛んであったことは経済史上重要である。五代の分裂は単に政治的な分裂であっただけではなく,経済上の分裂,換言すれば国内市場の分裂をも意味するものであった。かくしてここに物資の交流をはかる通商貿易が盛大に赴く必然性が存在したわけであり,各国の君主は貿易振興策にも重大な関心をもっていた。この時代に商業,貿易が発展したことは,宋代における商業の飛躍的な発展に繋がるものであり,その意義は多大である。
【文化】唐末五代における貴族勢力の衰退は,貴族文化に代る新しい庶民文化の台頭の出発点として注目すべきものである。また貴族の一部が華北の戦乱を避けて四川や江南に移住したことは,これらの地方に中央の文化を波及させる一因をなした。五代の諸王朝でも儒学の経典を刊行しており,全時期が文化的暗黒時代であったわけではない。唐詩に代わって流行した詞では,『花間集』などの詩集が作成され,絵画では山水画,花鳥画,人物画に優れた画家が輩出した。陶磁器では呉越で発達した越州窯や,後周の世宗の時代に創設された柴窯が著名であり,宋代における窯業発展の先駆をなした。
〔参考文献〕日野開三郎『五代史』中国古典新書,1971,明徳出版社
礪波護『馮道』中国人物叢書,1966,人物往来社
栗原益男『乱世の皇帝−後周の世宗とその時代』1968,桃源社
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