●呉楚七国の乱 ごそしちこくのらん
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中国,前漢前154年(景帝3)に呉王ビ※注1※を中心にしておこった内乱。漢の高祖は初め中央にのみ郡県制をしき,地方・遠隔地には漢室劉氏一族(同姓諸侯王)や功臣(異姓諸侯王)を分封して封建制と郡県制を併用した郡国制を実施した。皇帝が直轄する郡県は15,諸王国の数は39にものぼった。しかし,その目的は中央集権の確立にあったから,漢はまず異姓の王を除きにかかり,高祖の末年には諸侯王のほとんどは同姓となっていた。しかし,文帝の代になると諸王の勢力は強大なものとなり,なかでもとくに広大な領土を有する呉,楚,斉の3国は中央に対する独立性が強く,漢の国内政策上大きな障害とみなされるようになった。このため,太中大夫賈誼の献策にみられるように諸侯領土の削減という積極策が検討されるようになった。このころ,呉の皇太子劉賢が文帝の皇太子(のちの景帝)と遊戯中に争いをおこして殺されるという事件があり,その後,呉王の文帝に対する礼を欠く言動が目立つようになった。景帝が即位し(前157),チョウソ※注2※(ちょうそ)が御史大夫となると(前155),景帝は彼の策を用いてことあるごとに諸王の領土を削る方針をとった。当時,斉・楚・梁・代・淮南・呉・燕・城陽・趙・膠西・膠東・シ※注3※川・済南・済北・衡山・廬江の16王国が存在したが,そのうちまず楚・趙の各1郡と膠西の6県が削られた。そして,呉王のもとに予章・会稽2郡削土の命がいたると呉王ビ※注1※がまず決起挙兵し,ついで済南王辟光・シ※注3※川王賢・膠西王印・膠東王熊渠(ゆきょう)・趙王遂・楚王戊の6王がこれに同調して反旗ををひるがえした(前154)。斉王は当初呉王と結んでいたが,ことに及んで反徒に組するにしのびず自殺,斉は反乱革から脱落した。しかし,7国のうち済南・シ※注3※川・膠西・膠東の4王は斉王の弟で,斉の領土を分割相続して自立したものであったから,旧斉王国のかなりの部分が反乱側に立ったとみなすことができる。趙は匈奴と結んで兵をおこし,呉は精兵50万に南越の援兵30余万を加えるなど呉楚側の勢いは盛んで,乱の行方は予断を許さず,都長安ではむしろ反乱側を優勢とみて漢軍の将に軍費を貸す者がなかったほどであった。
漢は周亜夫に呉・楚(長江下流域)レキ※注5※寄に趙(山西),欒布に斉(山東)の諸国を討たせ,竇嬰を大将軍として斉・趙方面を指揮させたが戦局はおもわしくなかった。対策に苦慮した漢は,チョウソ※注2※を斬って呉に謝すべきであるという袁オウ※注6※の進言をいれてチョウソ※注2※を死刑に処したが,反乱はしずまらなかった。呉・楚連合軍は淮氷をわたって北上,漢側の梁王軍を破ったが,このあいだに周亜布が呉の糧道を絶つことに成功,兵糧のつづかぬ呉軍は漢軍に敗れ去った。呉王は東越へ走ったがその地で謀殺され,諸王の軍も各地で漢軍に破られた。楚王・膠西王は自殺,膠東・シ※注3※川・済南の各王は殺されて乱は勃発後,3カ月でほぼ鎮定され,残った趙王も10カ月後に降伏して自殺,乱は完全に終息した。
この乱ののち,鎮定に功のあった周亜布が丞相となり,諸侯に対する圧迫が一段と強化された。前148年から前145年にかけて王国の制度改変が実施され,諸侯王は漢朝同様の機構をもつ王国の主権者から単に租税を食む存在へとかわった。さらに武帝の代に入ると,推恩の礼が下され,王国の領地は諸子に分割されたので領土の細分化が進んだ。また,酎金の律による取り壊しなど厳しい締めつけも行われた結果,漢の中央集権体制が確立し,郡国制は実質的に郡県制とかわらなくなった。呉楚七国の乱は,漢の中央集権体制,すなわち皇帝による専政支配体制確立のプロセスで最も重大な事件であり,この乱の終結をもって封建勢力が払拭され,漢が真の意味での古代統一国家として完成されたと考えられる。
〔参考文献〕布目潮風「呉楚七国の乱の背景」『和田博士還暦記念東洋史論叢』1951
大庭脩「漢王朝の支配機構」『岩波講座 世界歴史』1960
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