●御成敗式目 ごせいばいしきもく
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鎌倉幕府の基本法典。1232年(貞永1)8月,第4代将軍藤原頼経,執権北条泰時のとき,泰時が中心となり,評定衆のうち法理に通じた太田康連・矢野倫重・斎藤浄円・佐藤業時らが参加して編さん,泰時をはじめ,連署の北条時房以下評定衆全員が起請文に連署して,一般御家人に公布した。「式条」,「式目」と称したが,内容をより的確に表すため「御成敗式目」の名でよばれるようになった。成敗というのは理非の裁決という意である。また,制定時の年号「貞永」をとって「貞永式目」ともよばれ,武家以外からは「関東式目」と称せられた。全文51カ条。公家の令律などと比べて,網羅的な法典とはいえず,武士社会の慣習法や初代将軍源頼朝以来の先例などのうちから,制定当時の施政の実際上必要と考えられた事項51カ条をえらんで成文化したもので,古代の律令や近代的法典とは性格を異にしている(51という数は,聖徳太子の憲法十七条の17という数を天地人の三才に配して得たという説もある)。その内容は,神社・仏寺の護持,幕府と朝廷・本所との管轄関係の規定,御家人の所領相続,刑法,訴訟手続法などにわたっており,法の根本理念は,当時の武士社会を規制した「道理」であったが,「式目」のうち,所領に関するものが多いことは,承久の乱後に激増した地頭・領家間の所領相論を処理することが「式目」が制定の直接の動機であったことを示している。しかし,より根本的には,泰時が式目制定直後,六波羅探題として在京していた弟の重時にあてた消息にみられるように,裁判の公正を期し,濫訴の防止をはかろうとして式目制定に踏みきったものである。その際,武士社会の慣習法および頼朝以来の先例をはじめて成文化しようとしたところに,武家法の公家法からの自立の自覚がうかがわれるのであるが,実際には公家法(直接には『法曹至要抄(ほっそうしようしょう)』)の影響をうけていたことが指摘されている。むろん,知行年紀法その他,公家法と異なる面も少なくなかったことはいうまでもない。式目の制定を幕府政治史の上に位置づけてみると,将軍独裁制から執権政治に移行してきた段階で,武家政治における統治方式に法治主義が導入され,幕府政治により,いっそうの拡大と安定をもたらしたという点で注目される。こうして制定された御成敗式目は,幕府の基本法典として重んぜられたけれども,前記のように,制定当時とくに重要と考えられた事項をえらんで規定されたものにすぎなかったから,時代の経過に伴って改廃補訂されるのは当然で,その補正は単行法令の形で発布された。それらは「式目追加」とよばれ,これを集録したものが「新編追加」「式目新編追加」「新式目」「貞応弘安式目」「御成敗式目追加」などで,『中世法制史料集(一)』(岩波書店,1955)に収録されている。このように,式目の規定のうちには改廃されたものもあったが,鎌倉幕府はもちろん,室町幕府でも基本法典として重んぜられ,室町幕府の発布する法令は式目の追加と認識されていた(建武以来式目追加)。また,戦国大名にも継受されて,分国法形成に少なからぬ影響を与え,中世を通じて武家の基本法典とされた。さらに武家政治の発展に伴って,式目を基幹とする武家法は公家法,本所法にも影響を及ぼすようになり,式目は武家のあいだではもちろん,公家社会でも盛んに講究されるようになった。式目制定後まもない『唯浄裏書』(ゆいじょううらがき)や,本文は佚亡して伝わらないが,二階堂是円(にかいどうぜえん・建武式目の編者の一人)の抄註などは前者でつくられた註釈書であり,後者のものとしては,室町時代清原宣賢(1475〜1550・文明7〜天文19)の手になる『御成敗式目抄』,『御成敗式目諺解』などの研究書がある。さらに江戸時代には,法的効力は消滅してしまっていたが,庶民のあいだで素読や手習の手本として用いられた。『中世法制史料集(一)』,日本思想大系『中世政治社会思想・上』,『大日本史料第五編之八』などに収録されている。