●五・四運動 ご・しうんどう
アジア 中華人民共和国 AD1919 中華民国
1919年(民国8)5月4日北京に発生し全中国に拡大した反帝国主義・反封建主義の愛国運動。第一次世界大戦中,中国では紡績業・製粉業などの民族産業が発展し,民族資本家の台頭と労働者階級の成長がみられ,1919年には約200万人の産業労働者が生まれていた。また陳独秀は1915年(民国4)に「新青年」を刊行し,民主と科学の旗を掲げて,封建的な儒教道徳と家族制度を排撃して個性の解放をめざした。白話(国語)文学運動を提唱した胡適,「狂人日記」を書いた魯迅,家族制度を批判した呉虞,人道主義をとなえた周作人らがこの「新青年」に拠って新文化運動を推進した。さらにロシア革命の影響を受けたリタイショウ※注1※らがマルクス主義を中国に紹介した。こうした新文化運動の舞台となったのが,蔡元培を校長にいだく北京大学であり,五・四連動の先駆けとなったのである。1919年1月より開催されていたパリ講和会議は,中国から提出されていた山東省の旧ドイツ利権の回収,21カ条要求の撤棄,各国の在華特権=不平等条約の廃止という諸要求をすべて却下した。5月4日午後,この決定に激怒した北京大学など10余校の学生3,000余人は北京の天安門前で抗議集会を開き,交通総長曹汝霖・幣制局総裁陸宗輿・駐日公使章宗祥という親日派官僚の罷免,21か条要求の撤廃,パリ講和条約調印拒否,日貨排斥(日本商品のボイコット)などを要求した。ついでデモ行進を行い,曹汝霖の私邸を襲って火を放ち,居あわせた章宗祥を殴打した。段祺瑞が実権を握る北洋軍閥政府は32人の学生を逮捕したため,翌日より北京の学生はストライキに突入し,6日には北京の中等学校以上の学生連合会が成立した。学生たちは街頭に出てビラをまき,講演活動を行い,国産品を販売して日貨排斥を訴えた。まもなく運動は天津・保定・上海・南京・武漢や広東・広西・福建・山西・陝西・浙江・江西・湖南・四川・東三省の各省などに拡大し,孤立した軍閥政府は6月3日から北京で街頭演説中の学生をいっせいに逮捕し,その数は1,000名に及んだ。だが,この弾圧は各地における商人や労働者の同情ストライキを生み,6月5日より上海において,罷課(学生ストライキ)と罷市(商店の閉店ストライキ)が発生し,ついで日本の内外綿紡績工場をかわきりに紡績・機械・印刷・鉄道・電話などの罷工(労働者ストライキ)が発生し,参加労働者数は6〜7万人に達した。上海におけるこの“三能闘争”と,各地に拡大していく罷市に追いつめられた北京政府は,逮捕学生を釈放し,6月10日に曹・陸・章の親日派3官僚を罷免して,銭能訓内閣は総辞職した。だが,16日に上海で成立した全国学生連合会をはじめ各地,各団体の講和条約調印拒否を要求する声はおさまらず,28日中国代表はパリ講和条約に対する調印を拒否したのである。狭義の五・四運動は,1919年5月4日から6月28日までをいうが,広義には1915年以来の新文化運動から1922年(民国11)2月のワシントン会議における,山東問題の解決までを意味すると考えられる。この五・四運動はパリ講和会議の決定にみられるような帝国主義列強の世界再分割策への反対運動であり,講和条約追加調印,山東問題の日中直接交渉を策する安徽派北京政府に対する民衆の反対運動は,また反軍閥闘争でもあった。救国救民をめざす知識人や学生は,欧米の新思想を積極的に摂取し,大衆のなかへ入って実践運動を展開した。なかでも,マルクス主義の伝播は重要であり,アナーキズムにとってかわるとともに1919年6月以降,毛沢東の「浙江評論」,周恩来の覚悟社,ウン※注2※代英の利群書社などの活動が生まれ,1920年(民国9)8月の社会主義青年団の結成などをへて,1921年(民国10)7月の中国共産党の創立につながっていく。上海の三罷闘争で大きな役割を演じた労働者階級は運動の中で自覚し,より組織的な労働運動を展開するにいたった。五・四の大衆運動の力を知った孫文は,1919年10月,中国国民党を結成してしだいに共産党との合作に近づいていった。これらが五・四運動の成果といえよう。〔参考文献〕野沢豊・田中正俊編『講座中国近現代史』4,1978,東京大学出版会
京都大人文研研究報告『五四運動の研究』1〜5,1982〜,同朋舎
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