●五山文学 ござんぶんがく
アジア 日本 AD
鎌倉時代末期から室町時代末期にかけての時期に,禅僧とりわけ京都の五山・十刹に拠った臨済宗の禅僧らによってつくられた漢詩・漢文の総称。禅宗は元来,教外別伝・不立文字を標榜し,教理や文章的表現にわたるのを嫌っていたが,唐代から,偈頌(宗教的な真理を含んだ韻文)を中心とする宗教文学がおこり,ことに宋代に入り禅宗が文学的教養豊かな士大夫階層に支持されて興隆するに及んで,この傾向は一段と強まった。そしてこの風潮は,禅宗の伝来後間もなく,日本にも伝わって来た。もっとも,永平道元・蘭渓道隆らの本格的な禅僧は,座禅第一主義の立場から〈文筆詩歌は詮無き事だ〉として,これに奔るのをきびしく誡めていたが,鎌倉時代末期に一山一寧・大休正念らが渡来し,留学した日本禅僧の帰朝するものが多くなるにつれ,禅僧社会の文学への傾斜はさらにその度を増し,これから約200年間にわたり,彼ら禅僧によって尨大な量の詩文が述作され,日本漢文学史上最も輝かしい時代が現出した。この五山文学の展開は,その性格によって,前・中・後の3期に区分される。前期は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期で,在元20余年で帰朝し,『岷峨集』を遺した雪村友梅,一山一寧に師事し『済北集』を遺した虎関師錬,在元50年で帰朝し建仁寺に拠った龍山徳見,入元して古林清茂らに参じて帰朝し,『東海一オウ※注1※集』を遺した中巌円月,『空華集』を遺した義堂周信らがこの期の代表者である。彼らは詩文を禅の修行を補助するものと認める立場をとり,その作品は偈頌本来の宗教的性格をとどめ,かつ和臭の少ない本格的な漢詩文であった。中期は室町時代の初めから応仁の乱勃発前までの時期で,入明して明の太祖にその詩才を認められ,義堂と並んで五山文学の双璧と称され『蕉堅稿』を遺した絶海中津,四六駢儷体という特異の文に長じた太白真玄,〈文は惟肖,詩は心田〉と評された惟肖得巌(『東海ケイ※注2※華集』)と心田清ハン※注3※,『東坡詩集』などを講じ『続翠詩稿』を遺した江西龍派,鹿苑院僧録の要職にあり『臥雲日件録』と『臥雲稿』を遺した瑞渓周鳳らが,その代表的存在である。絶海を除くほかの僧たちは入明しなかったので,彼らの詩文は和臭を帯びたものとなり,かつ禅僧の詩文述作を積極的に肯定する風潮を生じ,その詩文は宗教性の希薄なものとなってきた。とはいえ,漢文学としてはなお高い水準を保っていた。後期に応仁の乱から室町時代の末,いわゆる戦国時代にかけての時期で,〈詩は是れ我家の般若経〉とか,〈詩に参ずるは禅に参ずるが如し〉などという詩禅一味論が流行し,五山派の禅僧の多くは,本来の禅の修行を捨てて,詩文の述作に傾倒するようになり,詩僧とも呼ぶべき者が多くなった。それだけに彼らの詩文は宗教性を喪失し,単なる花鳥風月を詠じた詩文と大差ないものとなり,かつ一般と和臭の濃厚なものとなった。この期を代表するのは,『半陶稿』を遺した彦龍周興,足利義政に信任され『補庵京華集』などを遺した横川景三,『翠竹真如集』を遺した天隠龍沢,『翰林胡蘆集』を遺した景徐周麟,『漢書』の講抄にも成果をあげ『幻雲詩稿』を遺した月舟寿桂などである。次に五山文学の展開を通観して目につくことの第1は,達意よりも形式美を重視した四六駢儷文が流行し,〈四六を作れなければ長老ではない〉とまでいわれ,『蒲室集』の講釈の流行したことである。第2は,初期には詩の形態は,古詩,七言あるいは五言の律詩,七言八句など複雑で長詩型のものにもわたっていたが,時代の下降とともに七言絶句の詩型に単一化されてくることであり,第3は多数の禅僧が同一の機縁や題で詩を読みつらねて詩軸を成すというように,社交性の強い文学であったことである。そして第4に注目されることは,中期以降,唐の杜甫・李白,宋の蘇東坡・黄山谷らの詩集の講釈が流行し,わが国における中国文学鑑賞の歴史に新生面を開いたこと,また朱子の新註による儒書の講釈を始め,『史記』,『漢書』,『老子』の講抄が盛行し,戦乱の時代によく文運を護持したことである。総じて五山文学は,禅本来の立場からすれば邪道であり,五山派の禅の命脈の衰退をもたらした有力な一因となったものではあるが,それは日本漢文学史上の最も高く,かつ秀麗な山脈を形成するものであり,かつ宋元風水墨画と禅宗様庭園などを随伴し,日本文化の発達を強く推進したものであった。なお五山文学と中国文学とについて,比較文学的研究を深めれば,多く豊かな収穫が得られるであろうことを付記しておきたい。
![]()