●呉三桂 ごさんけい
アジア 中華人民共和国 AD1612 明
1612〜78 中国の明末清初の武将。字は月所,長白。父は明の錦州総兵呉襄。父の力によって武将となり,明末の崇禎年間,総兵に任じられ,やがて提督の官を加えられて,遼西の寧遠(遼寧省興城県)にあって清軍の進出に対する防備にあたった。1644年(崇禎17),流賊の李自成が北京にせまると,明は呉三桂を平西伯に封じ,北京防衛にあたらせることになった。しかし李自成によって北京が攻略されて明が滅びたと知るや,山海関に引き返して清にくだり,清軍を山海関から中国内地へ引き入れ,たちまち北京を回復した。その後,彼は陝西・四川方面の流賊を平らげ,1657年(順治14)平西大将軍に任じられ,明の桂王朱由榔(永暦帝)や流賊の李定国を討って1659年(順治16)雲南城をおとし,1662年(康煕1)ビルマに逃げた桂王を捕えて雲南の平定を完成した。彼は1659年,雲南城に移り,雲南・貴州両省の軍事を総管し,強力な軍隊と豊かな経済力を背景として着々と勢力をたくわえていた。彼の軍事力としては,旧来の兵53佐領(1佐領=甲兵200人)を中心に緑旗兵1万2,000人を有し,また,広大な荘園・辺境貿易・鉱山採掘により経済的にも大きな勢力をもち,雲貴両省の文武官の任命権・財政権を握り,総督・巡撫をも牽制する勢力を有した。この平西王呉三桂は広東の平南王尚可喜・福建の靖南王耿継茂とともに三藩といわれ,清朝に対する一大脅威となっていた。1673年(康煕12),清が彼を雲南から引退させようとしたので呉三桂はついに反乱をおこした。いわゆる三藩の乱である。彼は自ら天下都招討兵馬大元帥周王と称し,初めは形勢有利で揚子江方面に進出して清軍を圧倒したが,その後清軍が三藩側の不統一に乗じて形勢を逆転させた。1678年(康煕17),呉三桂は周王として湖南省衡陽で帝位につき,昭武と建元するがまもなく死んだ。孫の呉世ハン※注1※が彼のあとを継いだが,1681年(昭武4・康煕20)清軍に敗れて自殺した。〔参考文献〕神田信夫「平西王呉三桂の研究」明治大学文学部研究報告・東洋史2,1952
![]()