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●五・三○事件 ご・さんじゅうじけん

アジア 中華人民共和国 AD1925 中華民国

 1925年(民国14)5月30日に発生した中国の反帝愛国運動。反帝国主義運動としては五・四運動につぐ第2の高揚であり,帝国主義在華企業の増加,民族産業の成長に伴って増加した労働者階級が運動の主力となった。1925年2月に12時間労働と月10〜12元の低賃金に苦しんでいた日系紡績工場の中国人労働者が,待遇改善,組合承認などを要求してストライキに突入し,日本の在華紡各工場に波及し,4万余人の労働者が参加した。このストライキは会社側の強硬な姿勢の前に労働者側が敗北したが,なおもサボタージュ戦術で抵抗する労働者に対して,5月14日,内外綿工場は中国人職工2名を解雇し,ロックアウトを行った。15日会社側に抗議した労働者に対して日本人職制が発砲し,顧正紅(共産党員)を射殺し,十数人を負傷させた。ただちに学生を中心に上海の各階層が参加した抗議行動が展開され,街頭で宣伝工作を担当していた学生6人が逮捕された。5月28日,中国共産党は2日後に大規模な反帝闘争を行う方針を決定。また4月より上海と同様のストライキに突入していた青島在華紡の中国人労働者に対して日本の圧力を受けた奉天軍閥が武力弾圧を加え5人を射殺した。ために5月30日の抗議運動はより高揚し,2,000余人の学生が租界に入って逮捕学生の釈放を要求したが,結局拒否された。憤激した学生や民衆約1万人が共同租界南京路の警察署におしよせたが,イギリス人署長エバーソンの命令で警官隊が発砲し,13人が死亡,数十人が負傷,53人が逮捕された。この5・30事件の惨劇に抗議して,6月1日より上海全市の労働者・学生・商工業者はゼネスト(三罷闘争)に突入し,反日・反英の運動は全中国に拡大していった。このゼネスト指導では中国共産党が創設し,蔡和森李立三・劉少奇らの指導した上海総工会が重要な役割を果たした。紡績・電車・電話・印刷などの労働者が相ついでストライキに入り,港湾労働者も加わり参加者総数は20余万人に達した。5万余人の学生もストライキに加わり,学生・労働者らの強硬な要求に従って商人もストライキに参加した。ストライキに消極的であった虞治卿ら大ブルジョアジーの上海総商会に対して,中小ブルジョアジーの上海各馬路商界総連合会と上海学生連合会,中華全国学生連合会,上海総工会は6月4日工商学連合会を結成し,7日に17カ条の要求を発表した。逮捕者の釈放,租界参政権,言論・集会・出版の自由,領事裁判権の撤廃,労働者保護法の制定,団結権・ストライキ権の承認などを内容とするこの要求を掲げて,工商学連合会は大規模な集会を開き,ストライキを支援した。1日より列強は陸戦隊を租界内に入れて,たびたび虐殺事件をおこし数十人を射殺した。この反帝運動は北京・南京・漢口・広州・長沙・青島・天津・重慶などに発展し,その参加者は1,200万人に達したといわれる。

 一方,この反帝運動に対する弾圧も相つぎ,6月11日には漢口で,23日には広州で沙基事件という流血の惨事が発生した。それとともに,反帝運動の主目標が日本からイギリスにかわり,植民地香港でのストライキに発展していく。だが,上海では6月26日,総商会と名馬路商界総連合会が妥協して商人ストライキの中止を決定し,7月に入って,会社側の譲歩から基本的要求をある程度認められた労働者も次々にストライキを解除していった。また戒厳司令部のストライキ弾圧も続き,罷業労働者に対する救済金など,ストライキ資金の欠乏に苦しんだ総工会は,現実的な妥協方針を提示して会社側の了解をとりつけ,9月上旬には全面的なストライキ解除を指令,ここに3カ月にわたる上海ゼネスト体制は崩壊した。この運動自体は挫折したとはいえ,上海の組織労働者の急激な増加と中国共産党の党勢拡大をもたらし,不平等条約の撤廃など具体的な目標を掲げた各界,各層の反帝国主義闘争を組織し得たことは,5・30運動の大きな成果であった。

〔参考文献〕野沢豊編『中国国民革命史の研究』

小林修二「五・三○運動の一考察」1974,青木書店

江田憲治「上海五・三○運動と労働運動」東洋史研究40−2,1981

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