●国定教科書制度 こくていきょうかしょせいど
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教科書は学校教育を規定する重要な地位を占めており,各国の政府は教科書に対するなんらかの関与を行っている。そうした関与のなかで,とくに国(文部省)が著作権を有する教科書を,学校教育において用いることを定めた制度を国定教科書制度とよんでいる。【国定教科書制度の成立】わが国の教科書制度は,検定制度−国定制度−検定制度と推移していると概観できる。1872年(明治5)の学制発布によってわが国の近代的学校制度は創始されたが,学制には教科書制度についての特別な規定はみられない。その後,教科書を通じての近代教育の普及を試みた文部省の政策等により,教科書が徐々に整備された。そこで,1886年(明治19)の小学校令・中学校令により検定教科書制度がスタートしたのである。しかし,1890年(明治23)の教育勅語の発布とともに,義務教育の国家統制が急速にすすめられ,小学校の教科書,とくに修身教科書は国定にすべきであるとの建議が帝国議会において盛んに行われていた。1900年(明治35)当時では,国定教科書制度の成立を求める声が一般的であったといってよい。
そうしたなかで1902年,教科書の採択権をもつ各府県の審査委員と教科書出版社とのあいだの不正が暴露され,全国的な大摘発検挙が行われるという教科書事件(教科書疑獄事件)がおこった。この事件によって,検定制度に対する批判が高まるとともに,主要な教科書会社は罰則の適用を受け,ほとんどの教科書は法令上使用不能となった。そこで,政府はかねてから帝国議会で懸案となっていた小学校教科書の国定制度の実施に踏み切ったのである。翌1903年4月,小学校令が改正されて〈小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ〉(第24条)と規定され,小学校教科書の国定制度は確立した。最初に編集された国定教科書は修身,日本歴史,地理の教科書と国語読本,書き方手本で,1904年から使用された。ついで,1905年から算術と図画の,1911年から理科の国定教科書が使用された。
【国定教科書制度の変遷】以後,第二次世界大戦までに,小学校の国定教科書は3回にわたって大修正された。最初の修正は,第一次世界大戦による社会的影響と大正期の新教育運動および1917年(大正6)の臨時教育会議による小学校教育改善方策の答申などの影響を受けて,1918年に行われた。この修正には大正期の教育思潮が反映されているが,『小学校日本歴史』が『尋常小学国史』『高等小学国史』と改められたことなど,国家主義的な色彩が強まったことも見逃せない。
第2回の大修正は1931年(昭和6)の満州事変の後に各教科にわたって行われ,教科書名と内容が大きく改められた。とくに内容には満州事変後の国家主義的思想が顕著に反映されており,修身・国史・地理・国語の教科書はその傾向が大きい。
1941年(昭和16),国民学校令が公布され,小学校は国民学校となった。教科書については〈国民学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ但シ郷土ニ関スル図書,歌詞,楽譜等ニ関シ文部大臣ニ於テ別段ノ規定ヲ設ケタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ〉と定められ,原則としてすべての教科,科目に国定教科書を用いることが義務づけられた。第3回の大修正は国民学校用の教科書作成のために行われた。とくに,軍国主義的・練成主義的な色彩が強く打ち出されている。
また,中等学校と師範学校は1943年(昭和18)から,青年学校と青年師範学校は,1944年から国定教科書を主要な教科において用いることとされた。
第二次世界大戦後,1947年(昭和22)に学校教育法が施行され,新学制が始まり,国定教科書制度は終わりを告げ,再び検定教科書制度となった。なお,戦後に編集出版された『土地と人間』等の文部省著作教科書は,それまでの国定教科書と異なるものであり,検定教科書が出版されるまでの暫定的な教科書,検定教科書の見本としての性格をもつものである。
〔参考文献〕文部省編『学制八十年史』1954
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