50音順    検 索

●石高制 こくだかせい

アジア 日本 AD 

 兵農分離により村を離れた領主が貢租を米の量により計算し,現物を地代として徴収する石高制は,小農の労働生産性の上昇をはかり,軍役の基準としての役割を果たす,とする戦後の太閤検地論争の安良城盛昭,佐々木潤之介らの石高制の論文は,朝尾直弘,津田秀夫の構造的把握の展開となる。これによれば,幕藩制社会は,石高制国家・幕藩制国家・鎖国制国家の三つの特質論として把握される。(津田秀夫『幕藩制社会二三の問題』国史学85号)このような石高を,米に換算された法定収穫高とみる高柳光壽以来の通説に異議を唱えたのは徳川義親(「石高の概念について」社会経済史学5〜10,1936年)である。尾張一国の領地高の決定が不思議であり,これにもとづいて検査を行い,村高百姓持高を割付けて石高を決定したところが面白いとする中村吉治氏は,「石高制と封建制」(史学雑誌69の8・9,1960年,同氏『幕藩体制論』山川出版,1972年所収)で尾張一国だけでなく,東北諸藩-仙台の伊達藩の文禄検地は,石高にあわせて土地を割りつける操作であり,加賀藩も同様であった。とくに,淀藩の稲葉氏10万2千石などのように八カ国や数か国に領地が分散している石高を基準とした領国支配の石高大名は,蔵米取の石高武家をつくりあげた。中村氏は検地帳の分析などを通じ,石高制は,夫役に貢租に貫徹しているがその石高表示なるものはきわめて不正確であり,その決定において明確でなく,ただ大名の大小,家格の基準とされるものは,石高による幕府への軍役・公役そのほかの奉仕の量が定まるのである(中村吉治,前著182頁)とされ,封建再編成,崩壊期封建制としての幕藩体制を石高制からとらえている。石高制の実態については成立過程に研究が及び,例外とされていた仙台領の貫文制検地,出羽村山地方の年貢高検地(伊豆田忠悦氏),九州大分の村位別石盛制(佐藤満洋氏)などの研究は,成立期の石高を規定する年貢高についてあきらかにされた業績として注目できよう。(伊豆田忠悦「羽州村山地方における近世初頭の検地について」『小葉田淳教授退官記念国史論集,1970年』),(佐藤満洋「太閣検地における村位別石盛制の研究」大分県地方史1958・1959・1961〜63,1970〜72),九州の久留米・天草・黒田領の松下志朗氏の近世石高制の研究(松下志朗『幕藩制と石高制』校倉書房,1984年)は,石高制の内容を機能的に問い,知行表示基準と年貢収納基準とを分け,領国の表高決定において,領知朱印高と家臣団の知行宛行高の決定方法が異なる場合が多いとされるが,岡山藩の石高研究から長州・広島・米沢藩の朱印高と村高についての事例(しらが康義「岡山藩の石高について」−幕藩権力構造分析の視点から−『津田秀夫編「近世国家の成立過程」塙書房,1983年』)で,朱印高(幕府)と村高(藩)の乖離は,幕藩関係の特質を表したものとして注意される。上州沼田藩では,1598年(慶長3),貫高表示の検地と年貢徴収の二元支配を続けていたが1663年(寛文3),領内総検地によって村高を決定し,地方給人を排し,石高制を所有原則にまで貫徹した(丑木幸男「上州沼田藩における石高制の確立」『近世国家の展開』津田秀夫 塙書房)実態が明らかにされている。このように,石高制が村においてどのような貫徹となったか,また,その推移の構造的変化をあきらかにすることは,今後の研究の課題となろう。石高制についての飛躍的実態研究を集約し,新たな幕藩体制の構造究明も当面の課題となろう。

〔参考文献〕安良城盛昭『太閤検地と石高制』1969,日本放送出版協会

朝尾直弘『兵農分離と石高制』岩波講座日本歴史26,別巻3 1977

松下志朗『幕藩制と石高制』1984,校倉書房

中村吉治『幕藩体制論』1972,山川出版社