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●国粋主義 こくすいしゅぎ

アジア 日本 AD 

 本項では明治時代中期に欧化主義に反対して主張された民族主義的思想として,三宅雪嶺・志賀重昴ら政教社の雑誌「日本人」および陸羯南の新聞「日本」が唱えていた国粋主義,初めは“国粋保存旨義”を対象としている。国粋主義思想の成立には江戸時代における儒教や国学などの伝統思想の影響(たとえば尊王論など)を無視することはできないが,志賀・三宅・陸らは,日本の伝統や儒学についての解釈や評価において,むしろ欧米近代の科学・思想にもとづいていたと考えられ,直接的な影響という点では一線を画していたということができる。たとえぱ「日本人」3号に〈日本前途の国是は“国粋保存旨義”に選定せざる可らず〉との論説を発表し,初めて国粋の語を用いた志賀重昂は,その“国粋”をNationalitYの訳語として用いており,その説明にさいして,神国・神州・天孫といった歴史的伝統をひく観念にはまったくよらずに,〈大和民族の間に千古万古より遺伝し来り化醇し来り,つひに当代にいたるまで保存しけるもの〉と説明し,その独自性を大切にすることが,彼の“国粋保存旨義”なのであった。注意すべきは彼には欧米諸国もみなそれ自身の「国粋」の基礎のうえに発達してきたという認識があり,彼は方法として自然科学の法則の適用と地理学とに依拠している。陸羯南の場合も『近時政論考』において自分たち“国民論派”を提唱するにさいして,“泰西国民精神の変遷”“泰西における国民論派の発達”から説きおこしたのであり,三宅雪嶺はその『真善美日本人』においては国家を植物にたとえて国家有機体説を主張していた。かくのごとく彼らは共通に西洋の歴史に学び,西洋の科学や思想に依拠しながら,一方で外来の文化の性急な移入に反対し,日本の“国粋”に依拠していわば漸進的改良による内発的な発展を図ろうとしたのである。そしてたとえば志賀は〈かの白皙人種の一顧を購はんとし,ことさらに不急なる土木を興し……仮装舞踏会を奨励するてふ策略のごとき〉表面をかざる“塗抹主義”として,ビスマルクのドイツを手本とする明治政府の近代化=欧化政策を厳しく批判する。だが同時に彼は〈予輩といへどもまたいささか事理の何物なるかを解道する者なり。……かの会沢の『新論』,大橋氏の『闢邪小言』を拝崇する者にあらず〉と述べ,文明開化に反対する反文明主義・反実利主義をも批判するのである。志賀はさらに『日本風景論』(1894)において,ナショナリティと風土との密接不可分の関係を具体的な事例をあげて説き,自然の景観・風土・国土・国家・文化は不可分一体のものであることを示そうとしており,その不可分一体のものを志賀は国粋と呼んだといえ,日本の風景の外国に対する優越性をも国粋の論証としたのである。このように地理学が国粋のイメージを定着させる媒介の役割を果たしていたところに志賀の特色があったといえる。一方,国粋主義をもっぱら政治思想として主張した陸羯南の場合には,日本の歴史的な風土に根ざしたものとしての“君民合同”の“国民”という観念を用いつつ,天皇主権を前提とする君民共治という形での立憲的な国民的政治の確立を藩閥政府に対して要求し,また欧米的価値観による日本の“特立”(独立)が失われることに反対した。かくのごとく概観するならば,一貫して在野精神を失うことなく,専制政府のうえからの国家主義を激しく批判し,政府の欧化主義や条約改正をめぐる西欧への弱腰を攻撃するという点で共通している国粋主義者たち(ナショナリスト)の果たした役割は,日本人に対して近代的国民の自覚を促したという点で小さくないものであった。しかし,条約改正の成功,日清戦争の勝利は日本のナショナリズムを主として対露強硬論,アジア諸民族の指導者としての自負へむけさせ,欧化主義は問題にならなくなった。いわば国粋主義の批判対象がとりあえず解消されたことはその影響力を減退させ,やがて伝統主義・排外主義への接近さえみせるにいたる。1919年(大正8)の大日本国粋会の結成は,国粋主義の変質の典型的表現である。