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●黒人問題 こくじんもんだい

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 かつては,アメリカ国内の社会問題の一つというとらえられ方をしていたが,今ではもっと広汎な人種の問題,平等の問題として,国際的な視野をもって考えられるようになってきた。

【歴史的背景】南北戦争が終わった1865年に,憲法修正第13条によって黒人は自由の身となり,1868年には憲法修正第14条,1870年には第15条によって市民権・選挙権を与えられ,一応表面的には,黒人にも白人と同じ権利が与えられたようにみえた。しかし,北部の連邦軍が南部から撤退してしまうと,1883年には,各州の権限を憲法修正第14条より優先させる最高裁判決が行われ,さらに1896年には,生活のあらゆる面で白人と黒人を別々にすることが最高裁判決によって認められ,白人の黒人に対するリンチも激増して,独特の生活様式が南部全体にわたって定着した。当時,黒人人口の約90%は南部に住んでいたので,教育,交通機関,ホテル,レストラン,さらに教会でさえも,白人と黒人の場所は別々に指定されるのが,南部の生活様式となった。各種の条件のために選挙権を行使することは,黒人にとって不可能に近くなり,白人との結婚は認められなかった。

【黒人革命】このような人種差別は第二次世界大戦以後まで続いたが,民主主義を唱える世界の指導国アメリカとしては,対外的にその威信が傷つく状況にあった。1954年に最高裁は,公立学校で人種差別教育を行っていることを憲法違反とする画期的な判決を下し,さらに翌1955年には深南部の中心アラバマの州都モントゴメリーでは,めざめた黒人大衆の力によって,バスの人種差別撤廃をめざしたバスボイコット運動が始まった。これが,のちに黒人革命と呼ばれるようになった一連の闘争の第一歩である。このバスボイコット運動の指導者の一人,マーチン=L=キング牧師は,当時まだ26歳という若さだったが,その後各種の黒人解放闘争を通じて,黒人たちや白人リベラル派からも信望を高め,非暴力大衆直接行動という闘争形態をつくりあげた。その成果の頂点は,1963年8月に行われたワシントン大行進で,20万をこえる黒人や白人の大群衆が非暴力の精神を貫いて参加した。当時ケネディ政権は,ロバート=ケネディ司法長官を中心に黒人革命を支持し,1964年にはジョンソン大統領のもとで強力な公民権法が成立し,白人と黒人を区別する南部の生活様式はここに崩壊した。

【ブラックパワー】しかし,南部保守層の抵抗は非常に大きく,また北部や西部の大都市にあるスラム街では,若い黒人たちの不満が爆発し,1964年から68年にかけて毎年夏になると人種暴動が各地に発生し,「長い暑い夏」と呼ばれた。当時は全米にヴェトナム反戦運動が高まり,大学の紛争も激しくなった上,管理化された社会に反抗したヒッピーなどのカウンター=カルチャーも人々の注目を浴びていた。そのなかでしだいに急進化した若い黒人グループは,「ブラック=パワー」を叫んで,白人リベラル派との共闘も拒否し,暴力的な傾向が強まった。

【少数派集団の自覚を促進】このブラック=パワー運動の過激な面は,1970年代に入ると消滅したが,黒人大衆にまで強い誇りを抱かせ,意識の変革を達成するという大きな効果を残した。1960年代後半からは黒人の閣僚や最高裁判事などが生まれ,黒人の平等意識はほとんど定着したといえる。この影響のもとに,従来差別を受けていたインディアン,メキシコ系やアジア系,さらには女性たちが平等獲得のための運動を展開した。アメリカのこれら国内問題は全世界に報道されたので,いまや単にアメリカの内部の問題にとどまらず,全世界的な連帯を招き,これらの問題の推移が,アメリカの威信を高めたり傷つけたりするようになってきた。

 ニューヨークの国連会議場で,ソ連の代表がアメリカの人種差別を非難したり,独立してまもない多くのアフリカの共和国は,熱心にアメリカの黒人たちがどんな生活をして暮らしているかに注目するようになったのである。

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