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●国司 こくし

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 律令制の地方派遣官。「くにのみこともち」「くにのつかさ」などとも読む。律令制では全国を66国2島に分かち,総体的な意味での国の規模によって大・上・中・下国の等級をつけ,守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官と史生(ししょう)との定員を定めた。その国守の職掌は,祠社・戸口簿帳・字養百姓・勧課農桑・糺察所部・貢挙・孝義・田宅・良賎・訴訟・租調・倉廩・徭役・兵士・器仗・鼓吹・郵駅・伝馬・烽候・城牧・過所・公私馬牛・闌遺雑物・寺僧尼名籍と広範であり,また,陸奥・出羽・越後の3国は饗給・征討・斥候,壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅の五国は鎮捍・防守・蕃客・帰化,伊勢・美濃・越前の3関国は関契などの特務が規定されていた。抽象的にいえば,行政・司法・警察権ということになろう。国司の相当位は,大国の守は従五位上で下国の守は従六位下,任期は時代や地域で多少違うが,大宝令で6年,のち4年,855年(文徳天皇斉衡2)以後は4〜5年であった。給与は,その位階に応じた位田・位禄のほか職分田・事力,のちには公廨稲(出挙の利稲)が加えられたが,この収入は莫大であった。四等官の下には,書記の役目をする史生が属し,さらに国博士・医師が付属した。国司の前身として国宰(くにのみこともち)が存在したといわれ,聖徳太子の「憲法十七条」第12条の〈国司国造〉の国司も国宰の意味にとる立場があるが,この場合は〈国造〉という名称が,当時用いられていたかどうかを証明する必要もあるであろう。また,『日本書紀』(幸徳紀大化2年)の改新詔第二条の〈畿内国司郡司〉を「畿内国の司・郡司」と読めば,改新詔では国司が定められなかったことになるが,それでは同じ幸徳紀の〈東国国司〉〈東国朝第使〉などはどのように理解すればよいのか,簡単には決められない多様な問題が残る。この〈東国国司〉については,令制国司のような裁判権が与えられていない点も興味をひくが,あるいは国司制成立期の過渡的現象とみえるかどうか,今後の検討課題であろう。

 国司が任地に赴くということは,現実問題としてはかなり容易ならぬことであったろうと思われるが,中央政府と国司との連絡には四度使,すなわち朝集使・大帳使・税帳使・貢調使などが設けられ,また中央政府の監督には巡察使按察使・観察使・検税使・勘解由使が置かれ,律令時代にはかなりの機能を発揮したことは,残存する当時の古文書などである程度推察することができる。しかし現実に適応せず,したがって実効の伴わない律令制はしだいに弛緩し,それとともに国司には早くも兼任・権任・員外の官が生じ,9世紀に親王任国の設置により,任地に赴かない遥任国司が発生した。それに伴って,員外国司・権任国司なども給与のみを受ける名目上の国司となり,実際に赴任して実務に従事した別名「受領」(ずりょう)といわれた中・下流の国司たちも,知行国制や荘園制によって権限を抑えられ,その結果,あるいは国衙に留守所ができて下級の在庁官人(ざいちょうのかんじん)が実務をもっぱらにし,あるいは,在京国司の代理の目代(もくだい)が収奪をはかるようになり,かくて地方政治は中央から分離し,地方土豪勢力が武士化して実力を蓄えるようになった。鎌倉時代には,守護・地頭の設置により,留守所の機能も減少して国司の職掌はほとんど有名無実になり,建武政権が一時国司制度の復活を企てたが成功しなかった。

〔参考文献〕『日本思想大系』「律令」1976,岩波書店

『寧楽遺文上巻』1962,東京堂

吉村茂樹『国司制度崩壊過程の研究』