●国郡制 こくぐんせい
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律令国家の地方行政区分。『日本書紀』孝徳紀大化2年の改新詔第2条に〈畿内国司郡司〉を定めよとあり,これを通説のように〈畿内・国司・郡司〉と読めば,646年に国郡制を制定したことになるが,この第2条に畿内国と郡司との内容規定があるのに,国司にはないことを主たる理由に「畿内国の司・郡司」と読めば,郡司制のみが先行して国郡制はまだ定められなかったことになる。しかし同条にはまた,「畿内」の範囲についての具体的な規定もあって,通説のように読めないこともない。ということで,国郡制の成立時期については,議論が分かれていて未だに解決がついていない。さらに問題となるのは,1960年ごろから藤原宮跡を初め各地に「評」名木簡が出土し,たとえば,701年大宝律令制定以後ならば一般に「美濃国大野郡」などと表記される地名が,683年(天武12)の木簡では〈癸未年七月三野大野評……〉(『藤原宮木簡』二,1981)と表記されていることでも明確なように,7世紀後半にはほぼ全国的に「評」字が使用されていたらしく,そうだとすれば『日本書紀』の地名は,すべて大宝律令以後の「郡」字で統一されていることになり,改新詔で国郡制が制定されたかどうかも疑わしくなってくることである。この問題はまた,大化以前の〈国造〉〈県主〉を定めたという国県制とも関連する。国県制が成務天皇のころ制定されたという記紀にほぼ共通する記載はとうてい事実とは考えられないが,時代が下れば『隋書倭国伝』にも〈軍尼〉〈伊尼翼(冀)〉の名称が著れ,この名称が『日本書紀』の〈国造〉〈稲置〉とどのように結びつくかにはなお不明な部分が多く,いわんや大化以前に,国県制と名づける行政区画の存在を確定しうるかどうかも疑問であるが,ただ一つ確認しうることは,律令制においては国司が中央からの派遣官であるのに対し,郡司は地方の首長である〈国造〉のなかから優先的に任命されたことである。この郡司の任命規定は,改新詔第2条にも,選叙令郡司条にもみえるが,要するに国郡制は,旧来の土豪である郡司が,広範かつ強力な権限をもつ国司に隷属し,大領・少領・主政・主張の4等官制に編成されたものの,いわば世襲的に郡内の検察や事務をとるという形で展開していったのである。なお律令制では,全国を66国2島に分かち,国に大・上・中・下の4等級,郡に里数によって大・上・中・下・小の5等級を付し,等級によって国郡司それぞれの四等官の定員を規定した。このような地方行政制度によって,律令国家はその中央集権的官僚制を完備したが,やがて平安中期以降は,一つには国郡司の俸禄・選考・任官等の複雑な諸制度により,一つには荘園制の発達により,しだいに有名無実化していった。〔参考文献〕「日本書紀」『日本古典文学大系』1965,岩波書店
「日本思想大系」『律令』1976,岩波書店