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●国衙領 こくがりょう

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 平安中期以降,国衙の支配下にあった土地。私領である荘園にたいし,国領・公領あるいは公田ともいわれた。律令体制下では,公地公民の原則にしたがい,土地の所有権は国家にあって,民衆は,国−郡−郷(里)の地方行政支配機構のもとで,班田収授法によって口分田の班給をうけ租税を取収される仕組みになっていた。したがって,そこでは日本全国の土地と人民の大部分が国衙の支配下にあって,荘園などの私領は副次的存在にすぎなかったのである。ところが,10世紀以後,律令制支配が崩壊し,荘園が乱立・増加していく状況のなかで,国衙の所管地にも大きな変化が生じるにいたった。

【国衙領と荘園】まず現象的には,荘園が増加するのに反比例して,国衙領がしだいに減少していった。『愚管抄』は〈宇治殿(頼通)ノ時,一ノ所ノ御領トノミ云テ,荘園諸国ニミチテ,受領ノツトメタヘガタシ〉ということばをつたえているが,それは当時の国司の実感であったと考えられる。この傾向はその後ますます発展し,権門貴族や大寺社の膝元である畿内では,荘園が国衙領を量的に圧倒していった。しかし,全国的にみたばあい,国衙領はひたすら減少没落の一途をたどったのではない。鎌倉時代に一国ごとの田地の面積や領有関係を調査・記録した土地台帳である大田文が,薩摩・大隅・日向・淡路・若狭・但馬・石見(いわみ)などに関して現存している。それらの大田文によると,たとえば若狭国・石見国などでは荘園と国衙領の比率はほぼ半分であり,現存の大田文全体の平均値では,約30%が半不輸をふくむ国衙領ということになり,しかもその所在地は国衙の周辺や交通の要衝など一国内で重要な地域を多くしめているのである。このことは,減少しつつあったとはいえ,なお国衙領の量的比重と意義が高かったことを示す。国衙領は,鎌倉時代はもちろん,その後,室町時代まで存続するが,それにはつぎのような国家の政策や在地諸勢力の動向があった。その一つは,政府が902年(延喜2)の延喜の荘園整理令をはじめ,以後,12世紀にかけてくりかえし荘園整理令をだして,院宮王臣家・寺社などによる荘園の拡大を抑圧する政策をとったことである。とりわけ,1069年(延久1),後三条天皇がだした延久の荘園整理令はきびしく実施され,後述するように重要な意味をもつものであった。

【国衙領の変質と再編】しかし,国衙領は,こうした荘園抑制策だけで存続したのではなく,国衙の支配機構や収取体制の面でも質的な変化をとげ,再編成されていったことに注目する必要がある。律令体制のもとで,班田農民からの収取は,公民を一人ひとり戸籍に把握し,調・庸・雑徭などを直接人身に賦課する体制をとっていた。しかし,10世紀以降,班田収授制の実施が困難になると,国衙はこの収取体制を放棄して,農村に成長してきた田堵と呼ばれる農民層に国衙領の田畠を請作させ,その田堵農民層を責任者に土地を単位として官物・国役などを賦課し,国衙へ納入させる体制へと移行せざるをえなかった。こうした収取体制の変化は,当然,国衙の支配機構や徴税責任範囲をも,大きく変質させることとなった。その最も顕著な変化は,まず10世紀末以降,律令制下の国−郡−郷の体制が崩れ,郡が分割されて,郷が国衙に直結する郡と対等な行政と徴税の責任範囲となりはじめ,11世紀半ばには,この郡・郷に加えて院・条・保・別名などが,それぞれ相並ぶ国衙の行政・徴税単位としての位置をしめるようになったことである。この郡郷制の転換の背後には,在地の土豪や田堵による未開発地・荒田などの開発の進展という事態があって,かれらは国司からそれらの地にたいする開発の優先権を承認してもらうとともに年貢の徴収と納入を請負う権限を獲得し,国衙に直結する所領として公認されるにいたったのである。そして,かれらは,郡司・郷司・保司などの所職に補任され,その多くは国衙の在庁官人をも兼ねて力を蓄積し,さらに私領の開発を推進するとともに,周辺地域の農民にたいする支配を強化して,開発領主(在地領主)としての地位をきずきあげていった。かくて,11世紀中葉以降の国衙領は,在庁官人らの国衙権力につらなる在地領主の所領がその中核をしめるようになったのであり,前記の大田文にみえる国衙領が国衙の周辺や交通の要衝などの地域に多く存在するのも,この点と密接に関連するものであった。国衙領の主要部分を所領として支配するこれらの在地領主は,荘園の拡大を阻止して国衙領を再編強化するために積極的な行動を展開するのであって,荘園整理令を振りかざして荘園の抑圧をはかる国司のもとで,実質的にそれをささえたのはかれらであった。既述の延久の荘園整理令は,国衙領居住の農民が盛んに出作し,また権門寺社の寄人・神人などになって官物・国役などを対捍するのを禁止したもので,以後,国衙と荘園のあいだで,農民と田畠の帰属をめぐって激しい抗争が展開されるようになる。そして,12世紀初頭ごろに,国衙は農民を居住地本位に把握して,国衙領に住む農民を耕地に関係なく「公郷在家」とし,これに国役を賦課する新しい収取方式をとるにいたった。この「公郷在家」支配方式は,在地領主の在家支配方式を採用したものであり,国衙領がながく維持される重要な基礎の一つとなった。こうして,国衙領の所領化がすすみ,そこからの収益が財源視される12世紀には,中央では一国の国衙領からの収益分を権門貴族や寺社にあて行う知行国制度が形成された。

【武家政権と国衙領】12世紀末に成立した鎌倉幕府は,在地領主の一部を御家人に組織し,守護・地頭を設置してその政治支配体制を形成した。守護は国ごとに一人ずつおかれ,謀叛人・殺害人の検断と大番催促のいわゆる大犯三箇条を職務とし,その職務を遂行するために,国衙の在庁官人を指揮する権限をもち,また守護で「在国司」を兼ねる者も多かったので,その支配権はしだいに国司を圧倒していくこととなった。地頭は,公領(国衙領)・荘園をとわず設置され,その所管の領地の管理,年貢,公事・夫役の徴発,治安の維持などを職務とした。この地頭に補任されたのは,国衙領の郡司・郷司・保司や荘園の下司・荘司などの在地領主で,御家人となった者が多かった。幕府はこの地頭制度をつうじて公領・荘園をとわず全国の土地にたいする管理権と徴税権を掌握しようとしたのである。この守護・地頭制度の設置によって,鎌倉幕府の国衙および国衙領にたいする支配権が伸張し,幕府の基盤である東国などの国衙領は,すでに鎌倉期に実質的には幕府−守護−郡郷地頭が支配するところとなった。南北朝以後は,それを前提として守護は国内の武士を主従関係のもとにおき,任国を領国と呼んで国全体に領主権をおよぼし,急速に守護領化を進展させていった。他方,寺社勢力・貴族の基盤が強固な畿内近国や西国では,国衙領も東国のようにストレートな形で守護の支配下に組み込まれなかった。しかし,南北朝内乱期以降になると,守護は国内一帯に段銭(守護段銭)などを賦課して戦費としたり,年貢の徴収を請負う守護請などをはじめて国内での勢力を増大させ,国衙領にたいする一円知行化の傾向をつよめていった。そして,西国の国衙領も15世紀なかばには,大方,守護領国化されるにいたるのである。

〔参考文献〕石井進『日本中世国家史の研究』1970,岩波書店

坂本賞三『日本王朝国家体制論』1972,東京大学出版会

竹内理三編『土地制度史1』1973,山川出版社

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