●国学 こくがく
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学問の名称。[1]律令国家における地方教育機関。国衙に近接したところに設けられ,国のランクによって博士・学生・医生,その他の数が決められている。郡司の子弟から選ばれた学生,庶民から選ばれた医生に,それぞれ儒学・医学を教育した。[2]和学・倭学ともいい,記紀万葉などの古典文献学を研究する学問。日本固有の文化を究明するものでもある。近世以来の国学はこれにあたる。[3]1797年(寛政10)琉球に設置された最高学府。平等学校卒業後試験を受け合格して入学する。論談学生と官話詩文学生とに分かれ,それぞれの教科を履修した。【近世国学とは】国学は,江戸時代におこった学問・思想体系で,和学・古学・皇学・皇朝学・本朝学・本学・本教学などとも呼ばれている。国学といっても,国語・国文・神道学・有職故実・法制・経済制度学・書誌学などを含む広い学問であった。明治の国学者芳賀矢一は,国学を古代文化学であるといい,文献学の一種と位置づけている。
【近世国学の歴史】僧契沖・賀茂真淵・本居宣長の系と,荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の系とに分かれる。前者を三哲観といい,本居派の人々の考えである。後者は四大人観と称し,平田・大国学派の人々の提唱するところである。前者は文芸中心の古学であり,後者は古道学で復古神道を中心にすえたものである。そのほかに,江戸歌文派と称する賀茂真淵の県居門流からわかれた歌文中心の文芸学派が存在する。こうした学派の拮抗の上で,国学の歴史は展開する。天保・弘化・嘉永ごろより,国学はしだいに政治変革路線とかかわりをもつようになった。書斎の学でなく,市井の学より実践の学へと変わり,藩校その他でも藩学教育のなかに組み込まれた。それが,藩校中心の本学運動を展開するにいたるのである。平田門などはしだいに塾則も,同志的結合として厳格となっていき,尊攘運動の実践へつながる。その教えが地方の豪農商層に大きな影響を与え,下からの百姓一揆,とくに世直しの動きに対抗する豪農商の危機神学として,門人層の拡大をはかった。江戸歌文派は,文芸サロンを通じて都市の中間層を組織し,百科全書的知識の集成をはかった。また文化サロン中心の,学習運動創出者としての機能を果たしている。
【国学者と常人】国学は常人・凡人とかかわりのある学問である。本居宣長は,凡人をもって〈すぐれたものも功しきことも何もない人で,妙理を理解できない人〉といっている。彼は凡人を仁義の心より,世人の情中心の人間だと考えていた。平田篤胤は凡人を尋常人・青人草そのものと考え,無学文盲とは考えていない。しかし世間の凡人を考えながらも「志なき人」は除外している。そして天皇は常人・凡人のなかには入れないという。佐藤信淵では凡人は“人民”となり,鈴木重胤になるとそれらの呼び方をときに応じて使いわけるなど,人によって「凡人」に対する考え方は異なる。しかし幕末になると国学者たちは,凡人をあまり頼りにしなくなり,むしろ志士というべき人に期待を寄せ,凡人は教化撫育の対象とするようになる。吉田松陰のような,尊攘を学問の眼目とする人々からは,「命惜しき凡人」は変革の荷担者から除外された。しかし民(たみ)は国の本・治政の元との認識は,その後もつづいた。
【明治の新国学】近世国学−本居・平田の学に対する,もう一つの学が江戸歌文派だとすれば,柳田学・折口学は,第3の国学である。
近世国学をどう位置づけるかが明治国学の模索の原点であり,国体とのかかわり・国家学とのかかわりを抜きには考えられない。新国学は,気概や慷慨の内容の掘り下げを両者ともにつとめている。その根底には経世済民の志があった。しかし道義の学には批判的で,非常時の学にも反対であり,常に平時の学として確立することを望んだ。
近世国学を批判する明治国学は文献学性とは多少方向を異としながらも,学としての自立,宗教からの自立をはかっている。今日,日本のみの国学でなく,世界各国の国学との関連づけを考えることが,とくにのぞまれる。