●コーカンド=ハン国 コーカンド=ハンこく
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浩罕汗国 18〜19世紀に中央アジアのコーカンドを首都として栄えたウズベク族のイスラーム国家。18世紀初め,ボハラ=ハン国の支配下にあったフェルガナ地方にウズベク族のミン氏族出身のシャー=ルフなるものがしだいに支配権を固め,その子のアブドル=ケリムのときに今のコーカンド城を築き,ジュンガルのガルダン=ツェレンの侵入を撃退して勢力をました。その兄の子のエルデニの時代(1753〜70)になって,アンディジャーン・ナマンガン・マルギランの諸都市を支配下に置き,フェルガナ盆地をほぼその手中に収めた。これが19世紀に,ボハラ・ヒヴァ両ハン国と並んで,帝政ロシアや清朝と対等にわたりあう国家となったコーカンド=ハン国の起源である。当時支配者はベグを称していた。政権を樹立したエルデニはキルギス傭兵とコーカンドの砲兵を主力とする部隊で,さらにタシェケント・ホーシェント・ウラテュベなどの商業都市を掠奪し,勢威を振るったが,東南に隣接するカシュガル地方にはすでに清朝の軍事力が及んでいることもあって,直接の軍事行動を避けて清朝の朝貢国となり,その代償として新疆のカシュガル地方との通商がみとめられた。コーカンド商人はカシュガル・ヤルカンドを中心とするタリム盆地のオアシスとの通商を通じて,タリム盆地の産物よりは茶(おもに磚茶)・絹織物・陶磁器,それに銀といった,中国内地からの移入品をもとめ,それらをカザフ遊牧民やボハラ=ハン国・ロシアへ中継輸出し,多大の利潤を得ていた。商人の活動は結果的には新興のコーカンド政権の財政に大きく寄与したので,コーカンド支配者は新疆でのコーカンド人の商業活動を積極的に奨励した。シャー=ルフから数えて6代目のアーリムは初めてハンの称号を用いたが,彼のときにタシュケントを,その弟オマルのときにトルキスタン市をそれぞれ併合し,オマルの子ムハンマド=アリーはトルキスタン市周辺のキルギス・カザフ族を服属させた。このころがコーカンド=ハン国の全盛期であった。同時期(19世紀前半)東方の新疆に対しては,かつてカシュガル地方に勢力をもち,1760年(乾隆25)に清朝によって駆逐された宗教貴族ホジャ家の後裔の失地回復の「聖戦」を側面から支援し,コーカンド支配者自身の領土拡張の野心をのぞかせたが,清朝はその報復としてコーカンド=ハン国に対し経済断交を行った(1826,道光6)。しかし,コーカンドの侵入にそなえて多大の兵士と軍事費を出すことの不可能な清朝は1831年(道光11)末,コーカンドとの朝貢関係とカシュガル貿易を再開し,加えてコーカンド支配者が望んでいたカシュガルにアクサカル(領事兼徴税吏)を置くことを認めた。コーカンドは新疆在留の自国民に対する課税権を獲得したのである。その後も1860年にいたるまで,たびたびホジャ家の後裔を扇動してカシュガルの領土的支配を試みたが失敗した。このような行動は18,19世紀にカシュガル・フェルガナそれにパミール周辺での東西中継貿易が盛んであったことを,コーカンドの支配者たちがこれを政治的軍事的に支配したいとの野心をもっていたことの現れであるといえる。その間にハン国の領域は東は清朝領新疆に接し,南はバダクシャンにいたり,西はボハラ=ハン国とシル=ダリアで対立し,北はチュー河南岸に及んだ。1860年代,新疆ではムスリムの反乱が勃発して通商活動が困難になると,中継貿易をその経済的基盤におくコーカンド=ハン国は衰えをみせ始めた。加えてハン位をめぐる内紛がおこり,ブハラ=ハン国の攻撃を受けるとあっけなく瓦解し,1876年中央アジアに勢力をのばしたロシアによって滅ぼされた。