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●高野聖 こうやひじり

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 高野山から出て諸国を巡り,弘法大師信仰と高野山参詣および納骨をすすめた遊行者。これを聖と呼ぶのは,半僧半俗で遊行回国し信仰を勧進するからで,このような宗教者は日本では奈良時代からあったが,高野山で発生したのは平安時代中期からである。すなわち高野山が火災その他で荒廃したときに,その復興の資金を全国からの喜捨で集めるために高野山から派遣された聖であった。しかし高野山が俗世間から隔絶された山中の霊場であったために,初期の高野聖は超俗的道心が賞賛されて,平安末期の隠遁的念仏聖のあこがれとなった。そのために復興の勧進の仕事がなくとも高野山に流入する聖が増加し,ここに諸国回国するとともに,山中に隠遁する高野聖の集団が成立した。これは平安末期から江戸時代まで,学侶方行人方に対して聖方として高野山を三分する勢力となったのである。学侶は仏教・密教の学問と諸法会を専一とし,行人は諸堂舎の維持・管理と荘園経営を司り,山林修行によって自衛力を蓄えた。これに対して聖方は,諸国を勧進して焼亡頽廃した堂舎を再興し,納骨と宿坊によって参詣人を集め,高野山の経済を維持した。このような高野聖の始祖となったのは,南都興福寺から高野山に隠遁した念仏聖の教懐で,1088年(寛治2)の白河上皇高野山登拝のとき荘園を寄せられて,高野聖(別所聖人)が公認された。その後,政治的失脚者や源平争乱の敗残者がこのなかに流入し,とくに1149年(久安5)の高野山大火の復興を機に増大して,歌人西行もこのとき高野山に入った。したがって,このころから高野聖は文学にも登場するようになって,著名な初期高野聖も現れる。そのなかには滝口入道斎藤時頼(浄阿法師)・仏厳(ぶつごん)・房聖心・俊乗房重源(ちょうげん)・沙門蓮待・熊谷直実入道蓮生(れんせい)・佐々木高綱入道了智と,新別所二十四蓮社友などがある。そして鎌倉初期・中期になると,高野山内に幾つかの高野聖集団が形成されることになり,その最も大きなものが蓮花谷聖と萱堂(かやどう)聖と千手院聖の三集団であった。この時期が中期高野聖で,蓮花谷聖の頭目であった明遍(みょうへん)僧都は,その出自においても学問においても道心においても高野聖の偶像となる人物であった。明遍は少納言通憲入道信西(しんぜい)の子であり,その名門によって高野聖の地位を高め,鎌倉武士の脱落者も高野聖に流入した。萱堂聖は苅萱堂を中心にした高野聖で,はじめ覚鑁(かくばん)が萱堂を建て,のちに法燈(ほつとう)国師覚心によって大集団となった。この聖は苅萱物語や三人懴悔草子のような唱導文学と説経を得意として,高野山と弘法大師の霊験を天下に広めた。しかし鎌倉末から南北朝にかけて,千手院聖の時宗が優勢となり,勧化(かんげ)による利益追求に走って,室町時代には俗悪性が目立つようになった。これが後期高野聖で,一方では諸国回国のついでに反物の商売を行い,他方では戦国武将のあいだで隠密を働くものが出てきた。そのために高野聖は宿借(やどかり)聖とか,これをもじった夜道怪(やどかい)などと呼ばれて嫌われた。しかしこのころから公卿日記に書かれ,連歌俳諧に詠まれ,洛中洛外図に描かれたりして具体的な姿を現すのである。そこでは薬を売ったり,布や衣類を売ったり,商(あきない)ったり,高野山と関係のないものも現れていた。しかし高野聖に決定的打撃を与えた事件は,1578年(天正6)の織田信長の高野聖成敗で,畿内近国徘徊の高野聖1,383人を捕えて,安土・京七条河原・伊勢雲出河原で処刑した。これは高野聖の隠密に対する見せしめであった。その上江戸幕府も1606年(慶長11)に真言帰入を命じ,従来の活動を抑えた。この後は一般高野僧と同じ生活をすることになるが,学侶・行人の院代として配札なども行った。しかし泉鏡花の「高野聖」のような道心ある遊行回国は,近世にはもはや行われなくなっていたのである。

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