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●高野山 こうやさん

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 和歌山県北東部,紀伊山脈の北縁にある長峰山郡にある山。山頂は1,000m級の山々に囲まれた隆起準平原で,標高約900m。山内に高野山真言宗の総本山金剛峯寺および53の宿坊寺院がある。

【歴史】816年(弘仁7)7月,空海が真言宗の修行の根本道場として,高野山の開創に着手した。開創の動機は二つ考えられる。一つは嵯峨帝に開創を願い出た上表文に,〈空海少年の日,好むで山水を渉覧せしに,吉野より南に行くこと一日にして,更に西に向って去ること両日程,平原の幽地あり。名づけて高野(たかの)といふ。計りみるに,紀伊国伊都郡の南に当る。四面高嶺にして人蹤蹊(みち)絶えたり〉とあるとおり,弱年の日山野を跋渉していたとき,偶然高野山の土地をみつけたこと,ほかは中国(唐)より帰国するとき海上が荒れたので,無事帰朝のあかつきには修禅の一院を建立することを神明に誓ったことにある。初めは現在,伽藍または壇上と呼ばれる一段と高い場所に,それぞれ金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅を表す東西2基の仏塔および禅定院(講堂,のちに御願堂・金堂などとも)・住房などの建立に着手した。832年(天長9)8月22日,万灯万華会の法要を営んだ。835年(承和2)1月,宮中真言院で国家安穏・五穀豊饒を祈願する法会を行ったが,これが後七日御修法(みしゅほう)の始まりである。同年3月21日,空海は高野山で没した。62歳。在世中には堂塔伽藍は完成をみるにいたらず,造営は弟子の真然(しんぜん)にゆだねられた。921年(延喜21)10月27日,醍醐帝は空海に弘法大師の諡号を下賜した。このとき,観賢が勅使とともに高野山奥ノ院の廊前に詣でたことは,さまざまな文学のモティーフになっている。藤原道長・頼道父子の高野山参詣があり,藤原全盛期までには,高野山は現世の浄土であり,かつ大師入定(にゅうじょう)の聖地として天下の信仰を集めるようになった。高野山浄土の信仰とは,高野山を浄土に見立て,ひとたびこの地に足を踏み入れた者はどのような罪障をもたちまちに消滅するというものである。また,大師入定の信仰とは,空海は永遠の瞑想の世界に入ったままで今なおすべての人々の救済活動をつづけているというものである。平安中期には東寺と争って敗れ,東寺長者が高野山座主を兼任して荒廃したが,1024年(長元l)定誉(祈親上人)が勧進して奥ノ院を復興した。1132年(長承1)覚鑁(諡号興教大師)は空海の教学の再興をはかって大伝法院を建立し勅願所とした。だが,金剛峯寺側と折り合いがつかず,しばしば兵戈を交えた結果,覚鑁は学徒を率いて紀州岩出の根来(ねごろ)山に移り,円明院で没した。これが根来寺の始まりであり,その後,頼瑜が大伝法院を根来に移転した。これを新義(古くは新儀とも)真言宗または真言宗新義派という。院政期末期から鎌倉初期にはいわゆる高野聖が現われるようになる。高野聖は覚鑁のころにすでに存在したが,一般には『高野山往生伝』の冒頭を飾る小田原の教懐から始まるといわれ,小田原聖(八葉聖)。法灯国師覚心の苅堂聖・一遍の時衆聖(時宗聖)などがある。時衆聖は江戸時代まで高野聖を代表するものとみなされ,堂塔伽藍の復興などには全国をめぐり歩いて勧進につとめた。その多くは半僧半俗の人々であった。民俗学的にみると,「ひじり」はカレンダーまたは発火法を知る者を意味し,古代の知識人であったと解されるが,高野山では非事吏と書き表した。伝統的な学問研究と修法に従う者を学侶といい,雑役に従う者を行人(ぎょうにん)と呼んだ。鎌倉初期には覚海(1142〜1223)・法性(?〜1245)・道範(1178〜1252)らの学匠が輩出し教学研究が盛んになった。室町時代には宥快(1345〜1416)・長覚(1340〜1416)が出て,「応永の大成」と呼ぶ。また鎌倉中期以後,高野版の仏書開板事業も行われるようになる。南北朝時代には高野山は吉野朝側に加担したが,また足利尊氏の帰依も受けた。戦国時代に織田信長は高野山を包囲攻撃したが,陥落しなかった。豊臣秀吉は根来を攻撃壊滅し,ついで高野山攻撃の準備をすすめたが,応其(1537〜1608)の勧告によって中止し,高野山の復興を援助して青巌寺・興山寺を建立した。徳川家康もまた保護政策をとったので,江戸時代には徳川氏・諸国大名の帰依を受け,また庶民の納骨建墓等によって霊場寺院として栄えた。明治維新に高野三方(学侶・行人・聖)も廃止され,青巌・興山両寺を合併して金剛峯寺とした。1872年(明治5)女人禁制も解禁された。第二次世界大戦後,高野山真言宗となり末寺5,000カ寺を擁して今日にいたっている。

【堂宇・山内寺院】僧房は古くは7,700余あったといわれるが,現在は約130で,宿坊寺院は53である。山内は西院谷・壇上・一心院谷・南谷・五室(ごのむろ)谷・千手院谷・本中院谷・谷上(たにがみ)・小田原谷・蓮華谷・東谷・奥ノ院の12区域に分かれる。中心地の壇上は金剛峯寺の所轄で,金堂・根本大塔・東塔・西塔・不動塔(国宝)・大会堂・孔雀堂・御影(みえ)堂・高野四郎(鐘樓)・八角経蔵・三昧堂・社殿・山王社(鐘樓)などが立ち並ぶ。奥ノ院は山上東端にあり,空海入定の御廟(ごびょう)をはじめ灯籠堂(新・旧)・経蔵・納骨堂・御供所・護摩堂などがある。また,山上西端には大門がある。宿坊とおもな堂宇等は次のとおり。五室谷には女人堂・蓮華定院・巴陵院・五坊寂静院・南院・徳川家霊台・金輪塔・福智院・光台院・龍泉院・西室院がある。千手院谷には不動堂・本覚院・無量光院・本王院・五大院・一乗院・普門院・普賢院がある。本中院谷には龍光院(中院)・瑜祇(ゆぎ)塔・明王院・親王院・金剛峯寺・六時の鐘(鐘樓)がある。谷上には宝寿院・正智院・宝城院・西禅院がある。西院谷には西南院・報恩院・桜池院・成慶院・宝亀院・大門がある。小田原谷には金剛峯寺の一部,宗務庁・蓮花院・安養院・高室(たかむろ)院・西門院・金剛三昧院・禅定院・高野山大学がある。往生院谷には大円院・成福院・持明院・立宝院・不動院・北室院・遍照光院・密厳院・上池院・苅萱堂・地蔵院がある。蓮華谷には蓮華三昧院・大明王院・恵光院・光明院・熊谷寺・赤松院・宝善院・清浄心院がある。一橋から奥ノ院にいたる参道2kmの両側には約20万基といわれる墓石が林立する。997年(長徳2)の多田満仲の墓碑が最古である。伽藍大塔より奥ノ院御廟まで36本の町石が並び,1266年(文永3)の銘があるのもある。佐竹家・松平家の石廟,上杉謙信霊屋,覚鑁が千日無言の行をしたと伝える密厳堂,中ノ橋の汗かき地蔵尊と姿見井戸。高麗陣敵味方供養碑,一番碑といわれる崇源院五輪塔,第二次世界大戦の戦没者を祀る忠霊殿,霊元帝以下9代の天皇・皇族の墓地(髪歯塔)のある仙陵などがある。

【寺宝】寺宝の多くは金剛峯寺をはじめ山内諸寺院に所蔵するが,霊宝館に出陳されている。主要なものは空海の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」,わが国浄土教美術最大の傑作といわれる「阿弥陀如来聖衆来迎図」,藤原期仏画の代表作の「仏涅槃図(応徳涅槃図とも)」「五大力菩薩図」「八大童子立像」「木造諸尊仏龕(枕本尊とも)」「船中湧現観音図」「勤操僧都(ごんぞうそうず)像」(以上国宝)など,また「両界曼荼羅(血曼荼羅とも)」「丹生明神像」「狩場明神像」「赤不動」「波切不動明王像」「愛染明王像」(以上重文)などが,とくに知られる。山内寺院の国宝を挙げると,次のとおり。不動堂(伽藍)・沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃・金銀字一切経(中尊寺経)4296巻・法華経巻第六・宝簡集54巻・続宝簡集77巻6冊・又続宝簡集167巻9冊(金剛峯寺),大字法華経7巻・金光明最勝王経10巻・細字金光明経2巻(竜光院),文館詞林残巻(正智院・宝寿院),多宝塔(金彫三昧院),山水人物図襖絵10面(遍照光院)。

〔参考文献〕松長有慶他『高野山−その歴史と文化−』1983,法蔵館

宮坂宥勝・佐藤任遍『高野山史』1984,心交社

堀田真快『高野山金彫峯寺』1976,学生社

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