●興福寺 こうふくじ
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奈良市登大路町にある寺院で,法相宗大本山となっている古寺。蘇我入鹿を討つ願が成就したため,藤原鎌足の妻,鏡王女が669年(天智天皇8)に山城国に山階寺をつくり,それが天武朝の遷都に伴い,大和国高市郡に移って厩坂寺となり,それがさらに平城遷都により,その外京に移転して興福寺となったという。ここまでのことは確証がないが,平城京時代になってからは確かな歴史が始まる。まず中金堂が藤原不比等によってつくられ,次に北円堂が不比等供養のために長屋王によってつくられた。第3に,聖武天皇が元正上皇の病気平癒を祈って,東金堂を726年(神亀3)に建立した。ついで730年(天平2)に,東金堂に付随して五重塔が,光明皇后の発願でつくられた。第4に,光明皇后が母橘三千代の菩提を弔って,西金堂をつくった(734)。その後,南円堂が藤原冬嗣によって,813年(弘仁4)につくられた。【興福寺の伽藍・仏像】伽藍は,中金堂と中門,およびそれを結ぶ回廊が独立的存在となっている。次に,東金堂と塔とが一区画を存している。西金堂・北円堂はそれぞれ独立的存在をなす。また,中金堂の背後に,講堂の背後に,講堂とそれをめぐる三面僧房があって,一区画をなしている。このような興福寺の伽藍配置は,講堂をめぐって三面僧房をもつ川原寺式伽藍配置や,中金堂の前面に東金堂・西金堂をもつ飛鳥寺式伽藍配置と似ているところがあり,飛鳥の寺々の伽藍配置から影響を受けていることが知られている。光明皇后発願の西金堂には,釈迦像を中心に20数体の仏像がとりまいていたらしいが,現在は寺に伝わるのは十大弟子のうちの6体と,八部衆(全身だが,上半身のものもある)とである。これらのうちで,八部衆のうちの阿修羅像は,ことに有名である。十大弟子・八部衆像は,粘土で形を造り,その上を麻布と漆で固めた,脱乾漆法という仕方でつくったものである。重量が軽いため,たびたびの火災の際にも運び出され,今日まで残った。渡来人の子孫である将軍万福という仏師が頭となって,734年(天平6)につくったもので,その面貌や体躯に若さが感じられる。阿修羅像は日本彫刻史上の傑作の一つで,天平彫刻が荘厳化する前の,はりつめた,若々しい新鮮さが感じられる。西金堂には,宝物殿に現存する,銅製の工芸品である華原磐があったが,これを打つことによって仏の徳を礼賛したらしい。
【興福寺の歴史】藤原氏の氏寺で,光明皇后と関係が深く,法相宗がここで栄え,ゲンボウ※注1※・善珠などの僧が出た。8世紀に興福寺で維摩会が行われるようになり,以来明治維新までつづいたが,鎌倉時代末期までとくに盛んであった。奈良時代から田地・封戸をもっていたが,平安時代には自力による拡大や寄進によって,多くの寺領・荘園をもった。院政時代には,興福寺の僧兵がしばしば威力を振るい,春日の神木を奉じて朝廷に強訴したりした。鎌倉時代には,幕府から大和守護職をゆだねられ,政治的な勢力ももった。法然の専修念仏が流行すると,興福寺奏状を朝廷に提出し,その先をあげ,処罰を請うた。
【中世の興福寺】鎌倉期の初めに南円堂法相六祖像がつくられ,鎌倉彫刻を先駆をなし,さらに文殊菩薩像・維摩居士像・南大門仁王像がつくられた。13世紀に北円堂の復興事業の一つとして,仏師運慶の主宰によって世親・無著像がつくられたが,それは品格のある,人間味のあふれた,写実性のある作品である。また力量感にあふれた天燈鬼・龍燈鬼の像もつくられた。鎌倉末期から,一乗院・大乗院両門跡の抗争がおこった。中世には大乗院や一乗院に属する,油・鍋・そうめん・塩・麹・大工・葦座などの,日用品や職人の座があった。応仁の乱以後は寺勢が衰え,江戸時代には社寺領2万余石を与えられた。明治維新の際は神仏分離・廃仏毀釈で打撃を受けたが,のち,少し復興した。1959年(昭和34)に国宝館ができ,仏像をそこに集めた。興福寺には,別当の次第や事件などを書いた『興福寺略年代記』がある。室町時代に大乗院にいた尋尊大僧正の日記などを含む『大乗院寺社雑事記』は日本史研究の上で重要な文献史料となっている。
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