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●弘仁貞観時代 こうにんじょうがんじだい

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 弘仁は嵯峨天皇朝の年号(810〜823)。貞観は清和天皇朝の年号(859〜876)。平安時代初期にあたり,政治は比較的安定し,嵯峨・淳和・仁明朝においては皇権の伸張が著しく,文徳・清和朝では藤原北家による擅権体制が確立してくる。嵯峨朝の前半では藤原園人が太政官の首班として政治を指導し,律令制の原則に忠実な政治方針を打ち出すが,後期になると藤原冬嗣が園人の死後首班となり,律令制の原則を放棄するのではないが,必ずしもそれにこだわらず,没落していく公民よりも権勢家ないし富豪層といわれる人たちを権力の基盤にすえ,政治の安定をめざすようになる。この新政治の中核は,律令的人身課税を土地課税に切り替えていくことにあり,公出挙を土地割で班給することなどが行われた。これを平安初期政治の基調といってよく,その具体化した施策の典型が823年(弘仁14)に大宰府管内で施行された1万2,000町歩の公営田設置であり,貞観年間に畿内を対象に行われた貞観新制である。両者ともに地税強化という点で一致しており,かかる政策の成功したところに平安初の安定を支えた原因があったと考えられる。弘仁貞観期の前半においては皇室御料地たる勅旨田が盛んに設置されているが,これも皇室が御料地に基盤を置くようになっていると判断され,土地からの収益に基盤を求めるという平安初の動向に一致している。嵯峨朝から仁明朝までは天皇の権勢が強化され,中国的な専制君主の風貌を濃厚にしてくる傾向が認められるが,勅旨田にみる皇室経済基盤の充実に依拠している。さまざまな宮廷儀式が整えられてくるのもこの時期であり,華やかな花安・内安その他の儀式が始められるようになり,より整備されるようになっている。学問の面でも貴族的な文章道が隆盛し,貴族社会では漢詩文を嗜むことが流行し,『凌雲集』『文化秀麗集』『経国集』などの詩文集がつくられ,私学が台頭するのもこの時期である。宗教の方面でも最澄の天台宗と空海の真言宗が栄え,美術工芸の面では密教時代にふさわしい神秘的かつ官能的な彫刻や絵画が描かれるようになっている。しかし仁明朝まで宮廷を中心に学問・芸術が華やかに開花するが,文徳朝に入ると,宮廷儀式などにおいて急速に衰微する傾向がでてくる。その主因は,藤原良房が太政大臣として宮廷を牛耳るようになり,天皇を中心にした宮廷内の闊達さが失われたことにある。それを象徴するものとして,天皇の紫宸殿への出御如何がある。承和のころまで天皇は毎日紫宸殿に出御して政務をみる儀を行っていたが,仁寿(851)以降になるともっばら清涼殿で事を済ますようになり,貞観年間に入って紫宸殿へ出御して政務をみる儀が復活されたのちも,毎日出御することはついに行われなかった。文徳朝に入ると藤原良房は外戚の地位にあることを利用して皇室に圧力を加え,仁明朝までの勅旨田設置による皇室経済基盤の拡充策をやめてしまうのであるが,それによる皇室財源の縮減が皇室の活動を停滞的なものにしていると考えられる。親政を開始する宇多天皇朝に入ると,旧儀の復活がしきりに行われるようになるが,文徳・清和朝における宮廷儀式の衰頽を克服しようとの試みにほかならない。男踏歌は857年(仁寿4)以降廃絶されていたのを889年(寛平1)に復活しており,相撲儀も仁明朝の承和年間の先例をたずねて寛平元年に復活している。すなわち文徳朝以降しばらくのあいだは宮廷儀式の暗黒時代と評しうる側面がある。しかし宮廷内からの外へ目を移すと,藤原摂関家を中心に経済力をつけている貴族らが学問や芸術を支え,その享受を行っていた。私寺の築造は盛行し,密教の影響のもとで独自の様式にもとづく仏像が多数つくられるなどしていた。この安定した弘仁貞観期の社会も,その繁栄のもとである権勢家・富豪層らの活動が律令地方支配機構である国郡の行政と矛盾する側面があり,貞観期になると両者が武力衝突事件をおこすような事態ともなっており,表面的な安定のもとで重大な危機要因をはらんでいた。

〔参考文献〕森田悌「平安初期政治の考察」『平安時代政治史研究』1978,吉川弘文館