●洪茶丘 こうちゃきゅう
アジア モンゴル国 AD1244 モンゴル帝国
1244〜91 高麗人で蒙古に帰化した武将。本名は俊奇,茶丘は幼名。蒙古末の察球爾であった福源の子。福源はながいあいだ祖国である高麗を苦しめた。茶丘は少年時から従軍して驍勇をもって知られ,1261年に父の官職を受け継ぎ,官領帰附高麗軍民総官になって,軍士を率いて鳳州に来て屯田総管府を立てた。三別抄の乱に金方慶とともに珍島で戦い,さらに耽羅(済州島)に渡って乱を平定した。1274年監督造船軍民総官になって高麗に入り,苛酷な造船の役をおこして百姓を苦しめた。1274年(至元11・文永11)東征右副都元帥になって,都元帥忽敦らと対馬島・壱岐島などを攻撃して帰還した。その後,元は再び日本を討とうとして,茶丘を征東元帥として高麗に進駐させた。1281年(至元18・弘安4)忽敦・金方慶とともに4万人の軍士を率いて合浦を出発,海上で范文虎の10万人の軍と合流,壱岐・平戸などの地にいたったが,台風により全軍が沈没し,帰還後,病で死亡した。〔参考文献〕旗田巍『元寇』1965,中央公論社