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●講談 こうだん

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 話芸の一種。古くは講釈と呼ばれ,典籍の文意や語義を平易に解釈して講義をするという意味であった。仏教では経典講釈・法門講談の語が中世に用いられていた。神道や儒教にも講釈があった。兵法の書も講釈したことから戦記物語を読むことがおこり,“太平記読み”などを源流として江戸時代に発展をとげ,明治時代には寄席演芸として最盛期を迎えた。演者を講釈師・講談師・軍談師などと呼び,講釈の会場を講釈場(略して釈場)・講釈席などという。

【沿革】仏教の経典講釈が歴史的展開をとげていく中世に戦記物語(軍記物語・軍談)が出現し,戦国時代には御伽衆の中に“物読み”といわれるものが現れた。慶長(1596〜1615)のころには赤松法印(伝記不明)という“太平記読み”が講談史上に登場する。1622年(元和8)には大運院陽翁(法華法印日応)が『太平記評判秘伝理尽抄』を編さんした。これは『太平記』の読み方を教えるもので,多数の末書が出された。1697年(元禄10)刊行の『諸芸目利咄』に軍書講釈師の浪花の赤松梅龍・江戸の赤松青龍軒が現れる。そのころ江戸には名和清左衛門もいた。『人倫訓蒙図彙』には“太平記読み”の絵が載っている。元禄(1688〜1705)ごろには京都に原栄宅・岡本文助・沢村綾助・今岡丹波・勅使河原源内,大阪に甫水・道久らの講釈師があった。享保(1716〜36)のころ江戸には浅草の霊全や神田伯龍子があり,滋野瑞龍軒は軍談,成田寿仙はお家騒動物を得意とした。村上魚淵も活躍し,深井志道軒馬場文耕も現れた。文耕は金森騷動を読んで1758年(宝暦8)12月に処刑された。森川馬谷(1714〜91)は修羅場・評定物・世話物を区別し,読み物を初・中・後の3席に分けて講釈を合理化した。これがのちの前座・中座読み・後座読み(真打ち)の基礎になった。また馬谷は講釈場の看板やビラの書き方にも創意を加えた。増穂残口は神主儒仏従の三教一致思想を講釈し,その系統から吉田一保らの神道講釈が出た。文化・文政・天保(1804〜44)のころ上方には吉田素山・笹井燕林・玉田永教などがあり,江戸から名古屋へ行った円山尼は女講釈師として一家をなした。1835年(天保6)春には江戸から大阪へ行った塚田太琉(桃林亭東玉)が大塩の乱を読んで停止令が出た。この東玉の門下から出た鏑井北海(小金井蘆州)や東流斎馬琴(三代目から宝井)も異色の講釈師であった。さらに伊東燕晋・錦城斎典山・一龍斎貞山・邑井一・田辺南鶴・田辺南窓・神田伯山など名手が続々と輩出した。天保期に活躍した乾坤坊良斎は剃髪僧形の講釈師で『切られ与三』『小猿七之助』などを創作した。神田伯龍の門下から出た松林亭伯円は評判が高かったが,1855年(安政2)の大地震で没した。このころ講釈場は220軒もあったと『大江戸都会荒増勘定』にある。2代目松林伯円(1832〜1905)は幕末のころには泥棒伯円といわれ,白浪物(盗賊物)の世話講釈を得意としていたが,明治維新を迎えてから翻案物や実録物の新講談を自作自演し講釈師の社会的地位を高めた。明治時代には,伯円のほかに桃川如燕・3代目一龍斎貞山・初代田辺南龍・3代目神田伯山・旭堂南麟・伊東凌潮・政治講談の伊藤痴遊などがあった。大正から昭和にかけて2代目神田伯山(神田松鯉)・3代目伯山・5代目・6代目一龍斎貞山・2代目大島伯鶴・5代目神田伯龍・4代目・5代目小金井蘆州・7代目一龍斎貞山・一龍斎貞丈・大阪の2代目旭堂南陵などが活躍した。現在も講釈師は気力をふりしぼって講談発展に努力しているが,社会情勢の変化のため大きな転換期を迎えている。

【興行形態】江戸時代の会場は寺社の境内に葭簀(よしず)張りの仮設小屋を設けて行うことがあり,辻講釈として親しまれた。講釈場は昼席と夜席があったが盛り場では夜は行わない場合が多かったという。演者が釈台を前に置き,張り扇で叩く姿は昔も今も同じである。

〔参考文献〕芸能史研究会編『日本の古典芸能・第9巻・寄席』1971,平凡社

神田伯龍・河竹登志夫・関山和夫編『世話講談』1982,三一書房