●好太王碑文 こうたいおうひぶん
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古代朝鮮,三国時代の高句麗19代の好太王(在位391〜412,広開土王ともいう)の生前の功績を記し顕彰した碑文。東北アジアにおける古代国家形成史・国際関係史を解明するための最重要の史料。王の死後2年をへた414年,子の長寿王によって王陵の傍に建立された。現在,中華人民共和国吉林省集安の北東約4kmの地にある。1枚の巨大な方形柱状の角礫凝灰岩で,高さ約6.4m,4面に漢隷によって文字が刻されており,字の総数は1,802字と推定される。高句麗滅亡後,その存在は忘れられていたが,15世紀半ば李朝初期にその存在が知られ,金朝の皇帝に関する碑文として考えられていた。近世にいたり,しだいに清朝の地方官の知るところとなり,1875年(光緒初年ごろ)初めて拓本にとられた。拓本をとりやすくするため,碑文を覆っていた苔や蔓草が焼き払われ,碑文表面が損傷されてしまったらしい。のちにこれに石灰を塗付して,拓本を鮮明にするため字画の欠損を補ったりした。初期の拓本は双鉤加墨という手法であった。これは字画が不鮮明な場合,字画の周囲に墨を塗り,字画を浮き出させる方法である。これは判読を誤った場合,加墨を誤る可能性が強い。日本に初めて拓本が伝えられたのは,1883年(明治16)日本陸軍参謀本部員の陸軍大尉酒匂景信(さかわかげあき)が,現地でこの双鉤加墨本を入手,将来したのによる。碑文の研究は明治の10年代陸軍参謀本部編纂課において横井忠直が中心となって着手。その後,学者の研究が始まり,菅政友・久米邦武・那珂通世・三宅米吉らの研究が相次ぎ,碑文研究は本格的となった。日露戦争後,鳥居龍蔵が日本人学者として初めて現地調査し,1913年(大正2),関野貞・今西龍らの調査,1918年黒板勝美の調査,1938年には池内宏の現地調査があり,碑石の現状の報告があった。1907年には,フランス人東洋学者シャバンヌが現地で碑石と遺蹟と遺物を調査し,その翌年「朝鮮の古王国高句麗の遺跡」としてヨーロッパに紹介している。碑文の研究は第二次世界大戦前後,数十年の研究の空白期をおいて再開されるが,1972年在日朝鮮人研究者李進煕氏は,酒匂の将来した双鉤加墨本は作成するときに碑文をすり替え,このすり替えを隠蔽するため日本の陸軍参謀本部が石灰を碑面に塗付して“改ざん”を行ったという衝撃的な研究を発表した。その目的は“改ざん”した碑文の内容を利用して,日本のアジア侵略を正当化することにあったとする。李氏の学説は大きな反響を呼び,内外の研究者のあいだに白熱した論争が展開され現在にいたっている。最近(1984)には,中国吉林省考古文物研究所所長王健群氏の現地調査を踏まえた〈意図的な改ざんはなかった〉との報告もなされている。碑文はその内容からみて,3段に構成され巧妙に叙述されている。第1段は第1面の前半までで241字。高句麗の始祖王の伝承を略述し,第17世の孫の好太王の治世を称え,その功績を銘記して後世に示そうとする碑石建立の目的を述べる。第2段は第3面の前半までの920字。碑文の全総数のほぼ半分を使用し,従来最も問題とされてきた記事を含んだ部分である。好太王の対外発展の経過を編年的に叙述してある。395年(永楽5)に始まり,永楽6年,8年,9年,10年,14年,17年,20年までの記録である。このなかで問題の焦点となっている字句は,396年の記事の胃頭,〈倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民〉の部分である。日本では通説として「倭が辛卯の年(391)に海を渡って来て,百残(百済)や□□・新羅を破って臣民とした」と解釈してきたが,内外の研究者のあいだから幾多の反論が出されている。ついで第3段は碑文の終わりまでで641字。好太王の22年の治世のあいだに征服した城と村の総数と,王陵を守る守墓人烟戸の制の大略を記して叙述を終わっている。〔参考文献〕佐伯有清「研究史 広開土王碑」1974,吉川弘文館
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