●黄巣の乱 こうそうのらん
アジア 中華人民共和国 AD875 唐
中国,黄巣を指導者とする唐末の大農民反乱(875〜884,乾符2〜中和4)。四川を除きほぼ全中国を戦乱にまきこみ,この乱で唐朝は実質的に崩壊した。唐は9世紀初めの憲宗期に藩鎮抑圧に成功して中央集権体制の再建がある程度回復するが,天下りの節度使は中央での栄達にのみ意を用い任地での収奪を強化し,配下の兵士の給与を削減などして中央へ進奉と称する財物送付につとめた。兵士の不満は高まり,また没落流亡する農民は激増して社会不安は深刻な事態となり,さらに成長しつつある土豪・地主層の反発をも招くことになった。多数の没落農民は私塩・私茶業に流入し,唐朝の厳しい取締まりに対し武装し相互に連携して組織を拡大していった。9世紀後半以降,江南を中心におこった康全泰の乱・裘甫(きゅうほ)の乱・ホウクン※注1※の乱などはいずれも上記の諸矛盾の爆発したものである。これら諸反乱は一応鎮圧されたものの,反乱参加者は分散して群盗と化す。ホウクン※注1※の乱の最終的な活動の場となった武寧藩鎮の北隣から黄巣の乱が勃発するのである。黄巣は曹州寃句の人で,私塩を業とする富商である。何度も科挙を受けながら合格できなかった不平知識人でもあった。きわめて高い専売塩に困窮する農民大衆は安価で良質の私塩を求め,私塩賑売を通して黄巣はこの諸矛盾の集約ともいうべき情況を痛感していたと考えられる。875年6月に同業の王仙芝が蜂起したのに呼応し,彼は数千人を率いて蜂起する。黄巣集団は血縁的組織を中核として亡命の徒など多数の社会的アウトローを加えたもので,当時の私塩・私茶集団の組織型態と共通するものであった。反乱集団ははげしく流動して勢力を拡大し,876年(乾符3)12月に王仙芝が唐朝の分断招撫策に乗って官を受けたことから,黄巣は別行動をとることになる。878年(乾符5)2月,王仙芝が敗死すると,彼はその残党を収めて江南方面に転戦する。江西・浙江を流動し,ついで福建から一気に広州に南下する。当時,広州は南海貿易の有数の海港都市として繁栄していた。黄巣はここで唐朝との妥協をはかり,広州節度使を要求するが拒否され,広州を攻陥する。879年(乾符6)9月のことで,12万人(一説に20万人)の外国人が殺害されたといわれる。しかし,南方の暑気にあたって倒れるものが多く,北帰の行動に移る。桂州より湘江を下って揚子江に出,江浙方面から北上した。この間,これまでの略奪を主とした流寇性は影をひそめ,天補均平将軍と称して独自政権樹立の意図が前面に出てくる。均平の称はその後の中国の農民反乱の多くがスローガンとして掲げる貧富差の均平の主張の先駆である。880年(広明1)11月には洛陽を,12月には長安を陥し,僖宗はかつての安史の乱に際しての玄宗同様,四川におちのびねばならなかった。長安に入るや黄巣は帝位につき,国号を斉と称し,金統と改元した。唐の土徳に代わって金統の新王朝樹立を天下に宣言したのである。流寇性を克服して新政権をたてたものの,その支配の及ぶのは長安周辺に限られ,また流動を停止して根拠を定めたことから,唐朝の動員した藩鎮連合軍による包囲網に苦しめられ,再び略奪行為が激しくなって急速に人心の離反を招いた。形勢が不利に傾くにつれ,唐朝に投降する部将が続出し,黄巣政権は内部崩壊の危機にさらされる。長安東北方面の守りにあった朱温が唐朝にくだったのは大きな打撃であった。朱温は僖宗から全忠の名を賜い(朱全忠),運河のベンシュウ※注2※の宣武軍節度使に任じられるが,のち彼が唐朝を最終的に滅ぼすことになる。黄巣は2年4カ月のあいだ占拠した長安から,883年(金統3・中和3)4月に東方に活路を求めて撤退するが,なお15万人の兵力を有していた。その後,藩鎮軍,とくにトルコ系沙陀部出身の李克用の追撃により戦力を消耗しつつ,河南の王満の渡しで壊滅的打撃をうけた。ついで山東の郷里を目指したが,884年(金統4・中和4)6月,泰山東南の狼虎谷で最後まで従った甥の林言に首を討たせて最期をとげた。かくて10年におよぶ黄巣の大乱は終わりをつげたが,それは同時に唐朝の貴族官僚支配の終焉を意味するものでもあり,土豪・富商・群盗・藩鎮兵士など新しい勢力が各地に地方政権を割拠させ,五代十国の乱世へと移行していく。〔参考文献〕堀敏一「黄巣の叛乱――唐未変革期の一考察――」東洋文化研究所紀要13,1957
谷川道雄・森正夫編訳『中国民衆叛乱史』1,1978,平凡社(東洋文庫336)
![]()