●強訴(農民) ごうそ
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百姓一揆の一形態としての強訴は,多数の農民が,団結の力で領主側を圧倒し,強引に訴願内容を認めさせることをいう。形はお上に対する訴願であっても,これはもはや力と力の対決とみることができ,百姓一揆のなかでは最も代表的な形態といえる。農民が団結の強い力を示すためには,なるべく多数の参加と,固い結びつきが必要となるが,そのためには全村の農民が団結して参加し,しかも全領の農村が参加することが望ましい。つまり全藩惣百姓一揆となることが望ましいわけである。実際に成功した強訴はそうした組織と形態をとっている。強訴が多くみられるのは,宝暦・明和期をピークとする江戸中期であるが,江戸時代を通じての発生件数は719件(青木虹二『百姓一揆総合年表』)である。なお江戸時代の幕府法令における強訴の用語の意味は,代表越訴のことで,幕府法令の徒党が現在の強訴の内容をさす。【大規模な強訴】全藩惣百姓一揆の強訴は,享保年間ごろからしだいに数を増すとともに規模も大きくなるのであるが,まず最初に注目されるのは1726年(享保11)末から翌年正月にかけて,美作国(岡山県)津山領におこった山中一揆である。山中地域の農民およそ3,000〜4,000人が,猟銃・威筒(おどしづつ)・猪槍・とび口・竹槍などを手に,総大将格の牧ノ徳右衛門を先頭に蜂起して,鎮圧に来た藩兵と戦ったのである。藩兵と農民軍の対戦は,享保12年正月6日から15日ごろまでにわたって行われたが,最後の土壇場で,農民側は村役人や上層農民の裏切りによって潰滅した。農民に対する処刑は峻烈をきわめた。取調べもなく現地で打首になったものが76人あったと史料に記されている。また津山城下に引かれて行って磔刑になったものが2人,打首になったものが20人余あったという。享保年間から宝暦・明和期にいたるあいだに,大規模で有名な強訴がおこっているが,例示してみると次のとおりである。
1738年(元文3)磐城平藩一揆。年貢減免,上納金中止,歩役金・鉄砲役銭はじめ諸役免除,貯穀・種籾の払下げ,検見の公平,城米駄賃の直接支給などの多様な要求をかかげて長百姓級の農民が指導。8万4,000人参加。
1739年(元文4)因幡・伯耆(鳥取県)にまたがる鳥取藩領の大一揆。過重な年貢の減免・五歩米返還・三歩米借用などの勧農政策要求と,大庄屋の更迭などを要求。合流農民5万人に達した。騷動記録多数あるなかで『因伯民乱太平記』が有名。
1741年(寛保1)伊予(愛媛県)松山藩の久万山農民騷動。年貢減免と紙専売仕法反対を要求して大洲領へ逃亡。延参加人員7万余人。
1749年(寛延2)播磨(兵庫県)姫路藩一揆。暴風雨による凶作に加え,藩主交代の動揺に乗じ,年貢減免と大庄屋の非政反対をかかげて1万数千人が蜂起。騒動記録多数あるなかで,『播姫太平記』『播陽誰我身上』が有名。
同年岩代国(福島県)信夫・伊達郡幕領の一揆。1万7,000人参加。
同年 磐城(福島県)三春藩一揆。数万人参加。
同年 岩代会津藩一揆。数万人参加。
1750年(寛延3)讃岐(香川県)丸亀藩一揆。過重な年貢減免・新現諸運上停止・米麦の代金納換算の不満から6万5,000人参加。
同年 甲斐国(山梨県)八代・山梨両郡の米倉騒動。2万人参加。
1753年(宝暦3)備後(広島県)福山藩一揆。2万人参加。
1754年(宝暦4)筑後(福岡県)久留米藩一揆。16万8,300人参加。
1761年(宝暦11)信濃(長野県)上田藩一揆。1万3,000人参加。
1764年(明和1)武蔵国(埼玉県)本庄・深谷・熊谷各宿の周辺の村々からおこった伝馬騒動では,参加人員20万人に達したという。
【得たものは何か】全藩惣百姓一揆のかかげた要求は,新たな商品作物への課税反対,藩の専売制反対,諸運上廃止などであり,いわば資本主義生産の萌芽を農民側に確保したということであった。