●強訴 ごうそ
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寺社の大衆・神人が朝廷や幕府に対し,神威をかざしてその訴えを通そうとした集団的行動。【大衆運動の発生】大衆あるいは衆徒というのは俗界を離れて寺院において集団生活をして戒律を守り仏道に精進する僧侶のことで,寺院では一種の自治が許され,大衆の選挙によりネンロウチトク※注1※のすぐれたものが僧綱あるいは座主・別当に任ぜられた。これらの僧官僧職は仏教の繁栄により貴族に比肩される地位のものであり,庶民に開かれた唯一の立身出世の場であったので,庶民の俊才は競って僧侶となり,ネンロウチトク※注1※によりこれらの地位に昇った。しかし律令体制の弛廃とともに得度制度がくずれたので,課役を免れるため僧侶としての素質のない濫悪のものも多く僧侶となった。官寺の制度がくずれ,貴族が私に寺院を建立寄進したので,大寺の大衆の数は莫大なものとなり,延暦寺や興福寺の大衆は3,000人と称した。藤原時代に入り藤原氏の北家専制の形勢になると,中流下流の公家の子弟も寺院に入り,庶民と同様に学問修行につとめ,ネンロウチトク※注1※の次第により大衆の選挙をへて僧綱・座主・別当に任命され,よく多数の大衆を統御しえた。ところが藤原時代の末になると,摂関家の経済も行きづまってきたので,その子弟も僧侶となって責族的生活をつづけようとするにいたったが,かれらは寺院の秩序の原則であるネンロウチトク※注1※の次第をふみにじり,年少直任の制をつくりあげ,劫年未練の質をもって僧綱・座主・別当の地位を独占した。栄達の道をふさがれた大衆は大衆会議を開いてこれを排除しようとし,その決議をもって衆団をなして朝廷に訴訟することになったのである。僧侶が所司をへないで直接訴訟することは僧尼令で厳禁されているが,権威を失った僧綱らはこれを禁止できなかった。
【神輿神木による強訴】当初数回行われた数千人の大衆による集団的愁訴は令条に反するとして,朝廷によって追却された。ところがそのころ宇佐宮や伊勢神宮の神人は榊をかつぎ集団訴訟をしたさいに,朝廷では神の祟りを恐れてこれを認めるとともに,神社の訴えは理非を尋ね究めず,申請に任せるということになった。寺院の大衆はその目的貫徹のため神前で読経を行っていたが,この神社の訴訟を真似て,ここに神輿神木をかつぎ出すにいたったのである。興福寺大衆の春日神木による強訴は1093年(寛治7),延暦寺大衆の日吉神輿による強訴は1095年(嘉保2)に始まる。興福寺の不法な要求は〈山しな道理〉といわれ,延暦寺の強力な強訴は白河法皇をして〈天下三不如意の嘆〉を発せしめ,その訴うるところは必ず貫いた。藤原氏の公家で興福寺の強訴に反対するものは同寺から〈放氏〉に処せられ,それを許されないと朝廷に出仕することもできなかった。
【僧兵】大衆会議を召集して議事を進行させ,強訴の推進役を果たした僧侶は学問とともに武芸にもすぐれたもので,当時〈悪僧〉と呼ばれた。院政時代においては強訴は専ら神の威力により朝廷を脅やかしたのであって武力は用いられず,悪僧も大衆のなかの一部のものに過ぎなかった。中世に入り武家が武力によって大衆の強訴を制圧するようになると,寺院も武力によって,これに対峙するようになり,大衆がことごとく悪僧化し,いわゆる僧兵となり,源平の対立のさい,あるいは南北朝の公武の対立のさいに,寺院が武力により時局を動かすにいたったのである。
【強訴の経過】以上のような寺院の強訴は院政時代110年間におよそ60度余,鎌倉前期の40年間に14度,同後期の150年間に90度余,南北朝60年間に40度余,室町期の130年間に30度余あり,1540年(天文9)の延暦寺の強訴をもって終わりを告げた。これは戦国時代となり,朝廷や幕府が衰えて,寺院は強訴するところがなくなったからである。
〔参考文献〕平田俊春『平安時代の研究』1943,山一書房
辻善之助『日本仏教史上世篇』1944,岩波書店
平田俊春『僧兵と武士』1973,日本教文社
平田俊春「悪僧について」立正大学史学会創立五十周年記念論文集,1977,雄山閣
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