●庚申信仰 こうしんしんこう
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干支(えと)の庚申にあたる日に行うのを原則とする信仰行事。その起源については,日本固有説と中国説の2説があるが,内容からみると,中国道教の説く三尸説,仏教とくに密教・神道・修験道・呪術的な医学や,日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑にからみあった複合信仰だから,必ずしも日本固有ということはできない。信仰形式はまったく日本的ながら,その源流と本質とは三尸説に求められる。【三尸説とその変遷】中国の道教では,人間の体内にいる三尸と呼ぶ霊物は,人間の早死を望んで,つねに人間の犯す悪事を監視し,庚申の日の夜人間がねると,体内からぬけだして天に上り,その人間のやった悪事をすべて天の神に告げる。すると天の神は,悪事の大小に応じてその人間の生命を縮めるから,長生きをしようとするならば,三尸が体内からぬけださないように,庚申の晩に身をつつしんで徹夜しなければならない。これが守庚申(しゅこうしん)であるが,その夜には肉食や男女の同衾はさける必要があると説いた。守庚申とは別に,服薬・呪いなどの方法で三尸を駆除する三尸駆除法も考えられていた。これが三尸説である。
三尸の名とその機能は,317年にまとめられた『抱朴子』が簡単にふれているから,3世紀後半には説かれていたに相違ない。のち,時代が下るにつれて内容に修飾が加えられ,8世紀ごろにだいたい完成した形になった。同時に,一般に広く信じられるようになり,柳宗元(773〜819)や白楽天(772〜846)などの文豪まで守庚申に言及している。9世紀の半ばごろには仏教に取り入れられ,人々は僧侶指導のもとで講的組織をつくって,守庚申を行ったが,そのやり方は道教の場合と違ってかなり賑やかだった。その場合には『円覚経』を読誦する勤行をしたが,17世紀以後には観音信仰と結びついた。この形式の信仰は20世紀までつづいている。
【日本の信仰の推移】日本で庚申信仰の始まった時期は,わからない。しかし,『入唐求法巡礼行記』838年(承和5)11月26日の条に〈夜,人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあるから,おそらく8世紀末葉には守庚申が始まっていたと思われる。10世紀には,宮中で天皇を中心として行われたが,そのやり方は集まった王卿や侍臣に酒饌を賜わり,碁・詩歌・管弦そのほかの遊びをしながら徹夜をした。『江吏部集』などによれば,形式こそちがえ,精神と目的は,三尸説と同じだった。当時の貴族も同様の形式でやったが,それは守庚申と呼ばれた。1,2の例外を除いて,宗教儀礼は行われなかった。
15世紀の後半になると,守庚申のさいの勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手でつくられ,庚申信仰は仏教と結びついた。そこで,庚申講が組織され,庚申塔の前身の庚申板碑が造立されだした。現存最古の庚申板碑は,川口市領家の実相寺にある1471年(文明3)のものである。16世紀になると,守庚申は庚申待と呼ばれだし,山王信仰とも習合する一方諸仏が本尊視されだした。16世紀末期には,宮中でも庚申の本尊をかけるように変った。
仏教式庚申信仰が一般に流布した江戸時代は,庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期だった。17世紀中葉には山崎闇斎(1618〜82)が猿田彦大神を本尊とする神道式庚申信仰を提唱し,修験道も熱心に信仰を説きだした。青面金剛を本尊とする考えが定着し,四天王寺の庚申堂以下の庚申堂や庚申塔が各地にたてられたこと,室町時代からいわれている当日の男女の同衾は別にして,夜栄・婦人の結髪・オハグロ・洗濯などの禁,庚申の日生まれの子の名前に金ヘンの字をつけることなどは,すべて江戸時代からのことだった。しかし,明治の廃仏毀釈の影響で,今日では神仏混淆の傾向がつよく,信仰も衰えた。
〔参考文献〕窪徳忠『庚申信仰の研究』上下,1980,原書房
同上『庚申信仰』1956,山川出版社
庚申懇話会編『庚申−民間信仰の研究−』1978,同朋舎
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