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●考証学 こうしょうがく

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 広く深く資料を求め,独断的発想を避け公正に証拠によって考え,証明する学問の意であるが,一般には清朝考証学というように儒学の一流派の学問・学風をさす。中国清朝時代に全盛期を誇った実証主義的なこの経学は,宋朝時代に成立した性理学・朱子学が,その形而上学的思弁性の過度の発達にもとづく空疎性の増大を来たし,一方それに対抗する如くにおこった明代の陽明学も,知行合一の実践性を尊ぶ情熱的な講学のなかから,しだいに空疎な理論を旨とし宋学に近づく右派と,現成良知を唱えて欲望的な人間性を肯定する左派の分裂的傾向が強まるなど,陽明学者である黄宗羲さえ,陽明学者の恣意享楽的状態や独善的生活を批判するようになり,経世済民の立場から実際に役立つ学問の確立をめざし,史学や易学に関する業績を積んだ。一方,朱子学者である顧炎武は,清の南侵に対し2回も抗戦運動をおこしたり,明の滅亡後も抗清復明の連絡活動に努めたが,亡国の原因は明末における陽明学の主観的・独善的なあり方にあるとし,世を救い,政治に役立つ経世致用の学を確立しようとし,歴史的事実を尊重した考証を進めた。そこに古典に対する客観的・実証的な学風が形成されることになる。同じ朱子学者の王夫之も船山先生と呼ばれて世人に尊崇をうけたが,彼も明末の退化した陽明学を鋭く批判した。明末清初の三大師と称された黄・顧・王らの陽明学を排した古典を再認識した学風が,しだいにそれを慕う後輩学者に受け継がれることになった。経書を重んじ,経学のための経学とさえいわれるようになり,漢時代の経学を重んじたので,一名漢学ともいわれた考証学が成立した。その成立事情からいっても,考証学には抗清主義的な政治性をもつ実践的性格が強かったために,清朝の弾圧を受けることになり,康煕・雍正・乾隆各時代の文字の獄が行われた。実践性を封じられれば,当然の帰結として学問的考証性の面が強まってくる。そのため宋学のもっていた社会に対する指導性を乗り超えることはできなかった。満州から入った清王朝は文化的な低さや経済的後進性を抱えているだけに,漢族による積極的な批判を警戒する方向を執らされたものと考えられる。しかし漢学者を重用することには積極的で,康煕帝・乾隆帝などは学問を愛し,『康煕字典』や『四庫全書』などにその力を用いた。初め後漢学である古文学に拠り処を求めていた考証学は,全盛期を過ぎるころから行き詰まりを感じ,前漢学の今文学に求めるところが多くなり,ことに公羊学によって孔子に迫ろうとするようになった。今文学者のなかには,康有為らのように,衰えた清朝政治と侵略的な西洋列強に対して,その学問から行動ヘ方向をめざすものも現れた。考証学が漢代の中国的人間主義を重んじ,古典を正確に読解しようとした功績は大きく,西洋学の影響とも相まって科学的な研究の理念や方法をもったことも見逃せない。この科学的実証主義は,日本の近世儒学にも大きな影響を与えた。早くも伊藤仁斎の古義学荻生徂徠古文辞学のなかに,朱子学を批判し,陽明学を越えようとする古典尊重の姿勢としてその傾向がみえていたし,和学の世界にも古典尊重の学風として強い影響を与えることになった。こうした積極性は,幕府が朱子学を官学としていたことへの反発でもあったといえる。だから朱子学を守ろうとして18世紀末期に寛政異学の禁を断行した際にも,考証学を排除することなどはできず,官学のなかに考証の学風が入りこみ,諸藩学にも優れた考証が及ぶようになる。これは一方からいえば,国学の古典解読考証の風と互いに刺激し合う面もあったし,蘭学の科学精神に触発されるところもあって日本清朝考証学派が活力をもつようになったものといえる。林家の学から出た松崎慊堂が現れ,慊堂門の安井息軒は明治までこの学を伝えた。考証学の風は,西洋の実証学ことに実証史学と通じるところがあり,明治期の日本史・東洋史の研究にも大きく寄与した。