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●皇室制度 こうしつせいど

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 皇室制度が体系的・法制的に確立したのは明治以降で,法制上の用語としての“皇室”とは,天皇および皇族の総称であり,天皇を家長とする一個の“家”と定義されている。その皇室は一般法律,すなわち国務法とは別個の法体系によって規律され,それを宮務法と称した。1889年(明治22)制定の皇室典範をはじめ,皇室令として発布された登極令・皇統譜令・皇室祭祀令・皇室親族令・皇室財産令・皇室儀制令・皇族身位令・皇室裁判令などがそれで,その制定には国会がいっさい関与しない。しかし第二次世界大戦後の1947年(昭和22),日本国憲法の施行にさいし,従前の皇室令および付属法令はすべて廃止され,皇室に関する事柄も憲法および法律によって規律されることになった。新定の皇室典範皇室経済法も,国会の協賛をへて公布された法律である。もちろん皇室制度は,皇室の長い歴史と伝統を土台として成立したものであり,個々の制度にはそれぞれ複雑多岐にわたる沿革がある。以下そのうち基本的なものとして,皇位・后妃・皇族の3項目について解説する。

【皇位】現制では,皇室典範第1条に〈皇位は,皇統に属する男系の男子が,これを継承する〉とし,第2条に皇長子以下の皇位継承順位を定めている。これは明治の皇室典範を継受したものであるが,明治以前の旧制では,皇嗣の冊立によってはじめて皇位継承者が確定されるのを常則とした。この皇嗣冊定の儀式が立太子の儀である。これに対して現制の立太子礼は,生まれながら皇嗣と定められている皇太子が,あらためて皇嗣たることを内外に宣布する儀式であり,新旧両制度のあいだには根本的な相違がある。旧制における皇嗣の選定は,中国の継嗣法を継受した嫡長子相承主義と,父帝などの勅定による選定相続主義とが並び行われ,ときには13世紀後半以降の,持明院・大覚寺両皇統の対立のような両主義の相剋をひきおこした。また旧制では女子にも皇位継承が認められ,8人の女帝が出現したが,皇孫一人,皇曽孫一人を除いて,すべて皇女である。さらに現制では,皇位継承は天皇の崩御によってのみ行われるが,旧制では譲位による場合が多く,645年(大化1)の皇極天皇の譲位以降,明治天皇までの88代(北朝天皇を除く)中,57代が譲位による皇位継承である。したがって旧制では,天皇のほかに太上天皇(上皇)が並存した場合が多かった。

后妃】天皇の妻室は,上古はみなキサキと呼ばれたが,7世紀ごろからその最上位者をオホキサキと呼び,「大后」の字をあてるようになり,さらに中国の制にならって大后を「皇后」と称し,大宝・養老令のなかに天皇の嫡妻の称として定着した。また令制では,皇后の次位に妃・夫人・嬪を置き,妃は品位(ほんい)をもつ内親王と定めているから,皇后も内親王をあてるのが原則であったと考えられる。しかし729年(天平1)聖武天皇が藤原不比等の女光明子を皇后に立ててからは,臣家の女子,とくに藤原氏の女子が皇后となる例が圧倒的に多くなった。明治の制度では,皇后は皇族ないし特定の華族の女子に限られたが,現制ではその制限は撤廃されている。また一条天皇(在位986〜1011)のとき,二人の皇后が並立する例が開かれ,新立の皇后が中宮,先立の皇后が皇后宮(略して皇后)と呼ばれて区別されたが,両者とも正式の身位の称は皇后である。元来,「中宮」は居所による呼び名で,奈良・平安初期には天皇の生母の皇太夫人が中宮と称されたが,明治以後,中宮の称は廃止された。一方,令制の妃・夫人・嬪は,平安時代に入ってしだいに姿を消し,それに代わって女御(にょうご)・更衣(こうい)が出現した。ことに平安中期以降,女御より皇后にのぼるのが通例となるに及び,女御は皇后に准ずる嫡妻の地位となった。しかし,明治天皇の女御一条美子(昭憲皇太后)を最後として消滅した。

【皇族】現制の皇室典範によると,皇族とは,皇后・太皇太后・皇太后・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王をいい,皇子および皇孫を親王・内親王,3世以下を王・女王というと定めている。これは明治の皇室典範の規定をほぼ継承したものであるが,親王・内親王の範囲が四世以内から2世までにせばめられている。この明治以後の皇族に対し,大宝・養老令制の皇親の範囲はかなり狭い。令制では,天皇の兄弟姉妹および子女を親王・内親王とし,皇孫・皇曽孫・皇玄孫を王・女王とし,以上を皇親と定め,5世王は王を称することはできるが,皇親の範囲外とされた。皇后をはじめ,皇親の妻室が皇親の範囲に入っていないのは,明治以後の皇族と大きく異なるところである。また平安時代に入って,令制の皇親の規定がしだいに崩れ,親王宣下が慣例化するに伴い,皇子でも親王宣下がなければ親王と称されなくなった反面,皇孫以下も宣下を受けて親王・内親王となる例が開かれ,鎌倉末期以降は代々親王宣下をうける世襲親王家も出現し,やがて伏見宮以下の宮家が成立した。明治以後も前代以来の宮家が存続し,さらに多くの宮家が分立,あるいは新立したが,第二次世界大戦後,皇子女および皇弟とその妃を除いて,11宮家51人の皇族がいっせいに皇籍を離れて臣籍に降ったので,皇室の構成員は大幅に減少した。