●工作教育 こうさくきょういく
AD
一般には日用品や玩具などの製作に関わる教育を工作教育というが,今日のわが国の教育制度では小学校の「図画工作」の工作分野,中学校「美術科」の工芸,高等学校の「工芸」が普通教育のなかで明確にされている分野である。しかし広義に考えれば「家庭科」「技術科」,幼椎園の「絵画製作」領域の一部もこれに含まれる。扱われている素材と内容からいえば小学校では製作のよろこびを大前提としながら紙や木・廃材を利用して簡単な玩具や飾り・日用品を製作するなかで,材料の性質を把握したり,つくり方の工夫をしたり,道具類を適切に使いこなす能力を伸長させることを目標に掲げている。同じように中学校では実際の製作をする以前に構想を立て,図画などにあらかじめ完成形体を表現する能力,材料や用具の選択,製作の順序や方法の工夫などが加わってくるし,実際の指導場面で扱われる材料も木・土・金属・竹やアクリルの板・和紙などかなりの広がりをもってくる。ただ基本とする姿勢は機械を用いた量産システムのなかで物をつくり出していくことではなく,手技と手の延長と考えられる簡単な道具を用いて,造形教育の一還としての位置づけを忘れてはならない。したがって単に使用に供する物をつくることではなく,工作を通して造形感覚を磨き,血肉化された技能として定着させていくことに教育的意義がある。当然この意味で広義に解釈すれば手芸などもこれに含まれてくる。今日では多くの児童・生徒の住環境のなかで生産と消費の場面が一体になっていることは少なく,ほとんどの子供は消費場面のみをみて成長してきている。造形の素材となる資源の大切さ,素材や加工方法の違いが異なった生活様式や文化風土を生み出していることを気付かせるためにも工作教育はますます重要なものになってきている。【工作教育の源流】工作教育では工業製品のような物づくりはめざされてはいない。専門教育や職業教育機関で行われる教育と一線を画して,工作の教育的意義を積極的に考えたのは19世紀半ばごろのことである。幼椎園教育の創始者として有名なフレーベル(1782〜1852)は幼児教育の教具「恩物」を考えた人物としても有名である。恩物はそれ自体を加工するような教具ではないが,感覚をとぎすまして組み合わせで、さまざまな形をつくり出せるし,いろいろな空想を生み出す契機を与えるものであった。この意味ではよく工夫された教具で,手と眼の運動と技能の発達を促すものであるし,構想力をも身につけさせるものであった。上述の理由で工作教育の源流の一つはここに見い出すことができる。しかし本格的に素材を加工することに教育的意味を与えたのはフィンランドのシグネウス(1810〜88)であった。彼の着目になる「スロイド教育システム」はわが国にも紹介され,大きな反響を与えたのである。スロイドとは民芸のことであるが,北欧の産業革命以前の平均的な農民の生活がその基礎にある。北欧の人々は長い冬のあいだ,身近にある鉄・木・麻などを用いて家具・生活用具・農耕具・衣服などを各家庭で,自分たちのためにつくり出していたのであった。しかし19世紀の後半に産業革命の波がおそい,機械による品物が各家庭にも入り込み,人々は手づくりを止め,だれでもがもっていた手技はしだいに奪われていってしまった。手仕事でつくり出す用具はもはや経済的に見合わないものとなってしまったのである。シグネウスは貧しい農民が酷寒の冬,炉端で父から息子,母から娘へと伝えられていく技能はたんに物をつくり出すことだけでなく,その過程で自国の国土や文化を理解し,労働の意味を体験し,人間として成長していくことが含まれていることを見抜いた。物をつくり出すことによって人もつくられていくという逆説的な考えが彼をして工作教育への確立へ向わせたのである。それまで彼はフレーベルの「恩物」のよき理解者であったが,それよりもむしろ無名の人々がつくり出すスロイドにこそ全人的な教育の可能性があることを看破し,スロイドの教育は生産に直結する専門教育にではなく普通教育のなかでこそ発展させるべきだと主張した(1863)。父母に代わって教師が技能と同時に人間性を陶冶しようとする彼の考えはまもなく認められ,フィンランドでは1866年に小学校・師範学校で工作が必修科目となっている。シグネウスとほぼ同時期にスウェーデンのオットー=ソロモン(1849〜1907)も同じようなことを考えており,シグネウスの教示を参考にして,多くの実践的試行錯誤の結果,木材を中心に易から難への具体的な物材システムづくりに成功した。スロイドシステムはここに一応の完成をみることになるが,ほぼ同時期(1868年ごろから)にモスクワ帝国工業学校を中心にロシア法が考察されていた。これは一度に多くの人数を短期間に有能な職業人として育成するために開発された方法で,一連の工作作業をできる限り細分化して,1教程を終了した者が次の教程へすすむという方法が採用されていた。ロシア法もフィラデルフィアにおける成果発表会が大きな反響をまきおこし,アメリカでは1870年ごろからマニュアル=トレーニングという科目が広まっていった。
【わが国の工作教育】「工作」を教育の大切な一部として普通教育制度のなかに組み込んだのは「図画」と同様に明治以降のことであるが,ずっと以前から児童の遊戯のなかにはどうしても自らの手でつくり出すほかはない玩具が必要であった。寺子屋においても折り紙や紙人形づくり・キビガラ細工などはかなり行われていた。明治以降の学校での位置づけからいえば,本邦初の幼椎園(1886,明治19,東京女子師範学校,現お茶の水女子大に付設)でフレーベルの恩物が教具となった。この幼椎園はフレーベル主義にもとづいて運用されたので,当然恩物は大切なものであった。小・中学校への工作教育をみてみると,図画よりも遅れて1886年の「小学校令」に「手工」(「工作」という名称は比較的新しく,これが正式の名称となったのは労作教育の影響から1931年(昭和6)に中学校「作業科」のなかで「園芸」とともに登場した)がこの教育の出発となった。このとき小学校は尋常と高等に分けられ,高等小学校で随意科目として採用され,1890年(明治23)の「小学校令」では尋常小学校でも随意科目となった。この時期の手工教育をリードしたのは上原六四郎(1848〜1912)と後藤牧太(1853〜1930)で,後藤はスウェーデンに赴き,オットー=ソロモンの手工講習を受けて,スロイド教育をベースにした教育方法を提示した。つまりスロイドの教材基準である,[1]児童の能力に一致するか,[2]興味を起こさせかつこれを保持するか,[3]作品は有用であるか,[4]素朴な仕事に尊敬を与えられるか,[5]順序と正確を養うか,[6]明瞭と清潔を許すか,[7]形の感覚を養うか,[8]衛生上よろしいか,[9]方法的に排列し得るか,[10]手の熟練を与えるかの各項に合致し,しかもわが国の実情と素朴に照会して独自の工作教育を実践しようとした。したがって1891年(明治24)の「小学校教則大綱」尋常小学校の項では紙・糸・粘土・麦藁などが,高等小学校ではこれに加えて木・竹・銅・鉄が造形素材に掲げられ,目標としては手と眼の練習,製造に関しての技能,勤労を好む習慣を伸ばすことなどが記されている。その後「手工」は岡山秀吉(1865〜1933)らによって整備されたのであるが,大正デモクラシー期には図画の自由画とともに,自由手工・創作手工などのことばがさかんにもてはやされたのである。しかし1941年(昭和16)「国民学校令」では「工作」という名称自体は確立したものの,戦時であるがゆえに軍艦や飛行機などの模型工作が主たる教材となっていった。第二次世界大戦後はGHQの強い指導のもとに2教科であった「図画」と「工作」は一教科に統合され,新しい目標で再出発することになったのである。
【工作教育の課題】今日では生産形態が専門化し,分業を余儀なくされ,物づくりにおいて一人の人間が最初の構想段階から完成までの一貫した,総合的な活動に関わるのは非常に少なくなってきている。直接木や土という素材に触れ,手にそれらの反応を感じながら,名人の感性に沿って,作品をつくり出していくことは全人教育という観点から大切にされなくてはならない。今日ほど実体験が必要とされている時代はない。いわゆる手づくりブームはこのような充実感を求める人々が多くなっていることを証明している。この意味では工作教育は生涯教育という視野をももって地域に定着させていくべきであろう。
〔参考文献〕太田・杉山・仲山編『生活の造形』1984,鳳山社
岡田清『工作による創造教育』1958,創元社