●庚午年籍 こうごねんじゃく
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670年(天智天皇9,この年が庚午にあたる)に作成された戸籍。『日本書紀』天智天皇9年2月条には,〈戸籍を造る。盗賊と浮浪を断つ〉と簡単に記述されているが,『続日本紀』『新撰姓氏録』その他の記録から,この戸籍が作成された跡をたどると,畿内とその周辺はいうまでもなく,東は上野国・常陸国,西は九州諸国に及び,まさに全国規模で実施されたことを示している。『続日本紀』によると,727年(神亀4)九州諸国の庚午年籍770巻に官印を押したことがみえ,『平安遺文』(9〜4609)所収の上野国交替実録帳によると,上野国の庚午年籍は90巻であったことがみえる。のちの『大宝令』『養老令』では,戸籍は里ごとに1巻とするよう規定されており,いま九州諸国や上野国の場合,巻数とそのころ存在したと推測される里数とを比較してみると,それほど大きな隔たりがない。そうすると,この年の造籍はすでに1里1巻の原則にもとづいて作成されたと考えられよう。このように,全国規模で密度の高い造籍作業が可能となった背景には,地方の自然村落を編戸による行政村落への改革作業がすすみ,国−評−里制,1里50戸制への編成替えが急速に断行されたことを推測させる。一方,天智天皇が政治を主導した近江朝廷では,すでに律令の編集もすすみ,『弘仁格式』序によれば,668年(天智天皇7)に『近江令』22巻が制定されたと記している。この22巻のなかには,編戸や造籍に関連の深い戸令1巻が含まれており,それにもとづいて施行された戸籍であるとみなされる。ついで庚午年籍の記載内容であるが,『続日本紀』の713年(和銅6)5月条に,讃岐国寒川郡の物部乱ら26人が庚午年籍では〈良人〉であったと述べており,また同書764年(天平宝字8)7月条には,紀寺の奴の益人らが先祖を庚午年籍にたどると,寺賤のなかに〈奴の太者・女の粳売・児の身売・狛売〉の名が存在することを確認している。これらの史料から推定すると,この戸籍では1戸ごとに戸主・戸口の名が書き連ねられ,年齢・続柄および良民・賎民の身分上の区別が記されていた。それから豪族層のあいだでは個人が氏姓(うしかばね)と名をもち,漢字を用いて表記する慣習が定着していたのに対し,大多数の人民は無姓であった。それがこの機会に,彼らすべてに氏姓や名を付け,かつ漢字を用いて表記登録させるという煩しい手続を全国的に強行したのであり,ここに国家が戸あるいは戸口を直接把握するということになった。画期的な施策である。それゆえ律令制下,戸籍は30年間保存するよう義務づけているけれども,庚午年籍の場合は例外で,『大宝令』戸令によると,〈水海大津宮(おおみのおおつのみや)の庚午年籍は除くなかれ〉と規定し,永久に保存すべきであるとするのである。そしてこれはのちに氏姓や身分をめぐる訴訟に活用されているところからみて,氏姓の根本台帳として尊重されたのである。律令制下において,戸籍作成の主要な目的は,すべての人民を行政単位的村落である里に緊縛し,班田収授法によって各戸の最低生活を保障するとともに,各戸単位からの田租・調・庸や徭役などの賦課および兵士の徴発を確実にするためである。663年(天智天皇2)白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて,唐・新羅の連合軍に敗退した後,朝廷は九州の防衛を強化し,防人・烽の設置や要害の地に朝鮮式山城を築いた。668年(天智天皇7)唐・新羅の連合軍は高句麗を滅ぼし,唐は朝鮮半島全土を自領に組み込んだ。次は唐軍による日本来攻があるにちがいない,との危惧を抱いた近江朝廷は,天智天皇と朝政担当の大友皇子らの主導のもとに,全国規模で編戸と造籍を強制的に断行することによって,徴税・徴兵体制の整備効率化が急務となった。このような対外的危機感・緊迫感を背景に,670年から671年(天智天皇10)にかけて,まさに一瀉千里(いっしやせんり)にこの戸籍が作成されていったことを銘記すべきである。