●考古学 こうこがく
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【考古学の目的】語源的には,「古物等の学問」という意味であるが,19世紀末にイギリスの考古学者ホゴーズは考古学の定義について〈人類過去の物質的遺物を取り扱う科学〉と規定し,浜田耕作博士は『通論考古学』において〈考古学は過去人類の物質的遺物(により人類の過去)を研究する学なり〉と定義された。勿論この定義についても異論はないわけでもないが,要するに遺跡や遺物を対象として,それらが当時の人間生活(個人だけではなく),政治的・社会的・文化的といった広い範囲での実態を究明し,復原するとともに人類文化がどのように継承・発展してきたかを追究することを課題とする学問であるといえる。【考古学の対象と領域】考古学の対象となるものは,人類の過去の所産であり,遺跡や遺物と称されるものが主となる。遺跡とは住居跡・生産跡・墳墓・寺院跡・城郭跡など土地に刻まれたモニュメントであり,遺物とは石器・土器・甲胄・刀剣・船舶や服飾装身具にいたるまで,可動性をもつものの総称であるが,学理的に明確な区別があるわけではない。
遺跡や遺物についてこのように考えてみると,考古学の領域は他の学問領域ともかなり重複するとともに,他領域の研究成果の援用を受けなければならない。たとえば貝塚の研究では古生物学・動物学・人類学・石器原材の判定には岩石学,さらに最近では科学技術・先端技術を取り入れ花粉分析・地磁気学・螢光X線分析・原子力照射から原子構造の解明など,また保存処理についても新しい技術開発の効果を吸収しなければならず,学際的研究が要求される。
【考古学研究の方法論】考古学に学としての目的があれば,当然研究の方法論の確立が必要となる。考古学における発掘調査は目的でなく,資料集収の手段であって,調査によって得た資料から如何に実証的に目的とする成果をあげるかということになる。その場合,正確な資料を把握するための方法論の確立が必要となる。
かつて浜田博士は『通論考古学』において三つの方法論を呈示された。その第1点は「層位学的研究法」であって,遺跡が形成されている場合,後世に撹乱や移動をうけていない限り,下層は上層より古いという原則に立って年代の確定を行い,それにもとづいて,上下異なる層より出土した遺物を比較し,その相違性を抽出する。その場上下層間に形成上の変化があれば,それは時間差を示すものであって編年研究の基礎となる。これがいわゆる「型式学的研究法」と称されるものであるが,それはあくまでも型式差による相対編年であることはいうまでもない。この相対編年を実年代の絶対編年にするためには諸科学,諸技術など他の領域の援用を受けなければならない場合が多い。こうした視点を考えるならば,より「科学的研究法」の効用が必要となってくる。
要するに,考古学における「層位学的研究法」と「型式学的研究法」は車の両輪の如き関係にある。
次に「土俗学的研究法」の必要性を述べられている。技術文化の影響を受けにくい未発展社会においては,生活のなかにより原始性が残存するものであるから,古代社会の様相が現在社会のなかに求められることを参考として遺物の考察をより的確にとらえることができるという視点である。
【考古学の分野】考古学が遺跡や遺物を対象とするならば,その対象物の種類によって特殊領域の考古学が分科する。たとえば教会や寺院跡・経塚など宗教信仰を基調する分野では宗教考古学があり,そのなかにはキリスト教考古学・仏教考古学・神道考古学が生まれ,またヨーロッパではギリシアやローマ時代といった古典時代を対象とする古典考古学,美術史的価値を追究する美術考古学,水中に遺在する遺跡や遺物を対象とする水中考古学,産業発展の実態を解明しようとする産業考占学,航空機を利用して調査を行う航空考古学や古銭を対象とした古銭学,金石文の解明と発達史を考えようとする銘辞学・金石学など特殊な対象物や方法を駆使する考古学も提唱されてきたし,将来科学技術の発展によって新しい分野の考古学が提唱されることも必然的である。
【考古学における資料の価値】考古学研究が資料にもとづく実証的学問であるからには,その基本となるのは資料の価値である。浜田博士は考古学資料について次のような等級を付されている。[1]第一等遺物
考古学者自ら発掘し,発掘地点・共存遺物の明なるもの。[2]第二等遺物 発見地明確なるもの,其他の状態不明なるもの。[3]第三等遺物 発見地不明なるも,真物たること疑なきもの。[4]等外遺物 真偽不明なるもの。そして,〈学者は其の研究に際して,常に第一等乃至第二等の遺物を資料とし其の総合分析を試む可く,第三等遺物の如きは単に参考に供するに過ぎざる可し。若し此等資料の区別をなさず,混淆して同一価値に取扱い研究を進むる時は,其の結果は全然科学的性質を失うこと〉と警告している。すなわち考古学徒が研究の対象として遺物の資料的価値を認めるのと古物商が単に美術的価値を評価する場合との相違を示されたものといえよう。とくに遺物を考古学研究の資料とするためとは,出土地点の層位や遺存状況などの緻密な観察と判定をえることによってはじめて資料としての価値を有することになる。
なお,これらの資料はより綿密集成し,それによって実態を把握することができるのである。
【ヨーロッパにおける考古学の発達】考古学が近代学問として成立する以前は,ギリシア語にみられるように「古物」と「学問」の接合であり,広義には「古代の歴史」という意味,狭義には「古物学」であった。これを今日の考古学の概念に確立,発展させたのはウイケルマンであり,「近世考古学の祖」とも称されている。
その後トムガンやワルセーなどによって遺物の編年研究の基礎が確立され,今日みられる近代科学としての考古学へと発展した。
一方より広範な「人類学」の発展により,考古学も人類学の一分野として取り扱れることもあるし,近年ではニュー=ケオロジー(プロセス考古学)という新しい分野や環境考古学といった領域まで拡大されつつある。
【日本における考古学の発達】奈良時代において今日の重要な考古資料である銅鐸などの出土記述がみられるが,それはあくまで怪奇なものの出土を記録したにほかならない。下って江戸時代になって古物に対する関心が深まり,蒐集・記録や観察が行われ著作もみられるが,それはあくまで珍品や古物に対する関心が主であった。
西洋の近代学問体系の影響を受けて,わが国で考古学研究が確立するのは明治初年わが国に招聘された,モースによる大森貝塚の発掘調査を嚆矢とする。以後明治末期から大正初年にかけて各地で発掘調査が実施されるようになるが,考古学が学問体系として近代性をもつようになるのは,浜田耕作博士の業績に負うところが多い。
明治末年以来縄文土器の研究はすすめられていたが,昭和初期になって弥生式土器編年の基礎が確立し,古墳の編年もすすんだ。
戦後になって,土師器や須恵器の型式学的研究が進展するなかで国土開発に伴い,多量の資料を得ることができた。とくに戦前の皇国史観から脱する戦後の実証的方法による日本史研究の動向は考古学の成果が重要な働きを示した。
昭和20年代には,日本における旧石器文化の存在が明らかになり,研究領域も中世から近世の遺構や遺物まで対象が広がった。
一方,考古学が単に遺跡や遺物のみを対象として終わるのではなく,それらを通じて社会構造の実態究明まで展開する傾向も現れた。とくに国家成立論や共同体の構造にまで視野を拡大し,政治的動向を追究しようと試みる論考も活発となった。また埋蔵文化財を開発行為による破壊から守るという運動も行われている。