●侯景の乱 こうけいのらん
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中国南朝梁の末期,東魏からの降将侯景によっておこされた反乱。侯景は朔方(陝西省楡林県),あるいは雁門(山西省太原市)出身の人。景は東魏の実力者高歓に仕えて河南地域に大きな勢力を蓄えたが,歓の子證と不和となり,梁の武帝のもとに帰順した。このため梁・東魏間に戦闘が開始された。しかし,梁軍の敗北がつづいたため,武帝は東魏と和を結ばんとした。そのことを知った侯景は,寿陽(安徽省寿県)において兵をおこし,548年(太清2)建康城(梁の都,南京)を包囲した。翌年3月,建康城を陥落させた侯景は,武帝を憂死させ,簡文帝を擁立したが,551年(天正1)巴陵(湖南省岳陽県)において,王僧弁軍に大敗を喫すと,簡文帝を廃し,予章王蕭棟を帝位につけ,同年11月,蕭棟をも廃して自ら帝位につき,国号を漢と定めた。しかし,翌年王僧弁・陳霸先の連合軍によって討滅せられた。この反乱によって南朝貴族は没落し,南朝貴族制は実質的に終焉した。〔参考文献〕吉川忠夫『侯景の乱始末記』1974,中央新書