●工芸 こうげい
AD 【工芸の意味】工は、じょうず、あることが良くできることを意味し、芸は、才と技を意味することから、工芸とは人間生活に必要な日常用具を、無駄なく使いやすく美しくつくるということ、またはつくられた物をいう。一般に、美学上の純粋美術に対し、応用美術といわれるものをいう。英語のcraftは、力量・技倆・手練という意味と、これを具体化したいわゆる工芸の意味をもつ。handi-craftといえば手工芸である。industrial artは、工業美術・産業美術と訳し、広義の工芸の一部と考えられる。applied artは、応用美術。物をつくるのに美術的技術を応用した装飾的な道具器物、またはその形に美が求められる道具器物をいう。インダストリアル=アートもアプライド=アートも広義の工芸の一部と考えられるが、美術(アート)そのものとは異なり、美術らしくはあるが美術そのものではない。クラフトとかアプライド=アートが純粋の美術と対立的に考えられだしたのは比較的新しい時代になってからで、それ以前は、純粋美術に対する応用美術、あるいは工芸という観念はなかった。近代になり広義の工芸から純粋美術が独立しはじめ、また産業革命以後に、工業が貿易政策の必要から応用美術化されたのである。絵画・彫刻のような純粋美術は、近代になって広義の工芸から鑑賞用として独立したが、原始時代においては呪術(じゅじゅつ)的意味をもち、その後も信仰対象の創作、あるいは装飾効果をあげるため、彫刻や絵画の技術がほとんど実用目的と結びついていた。絵画は壁画・屏風・襖・器物などに、彫刻は礼拝用の仏像・仏具など、日常生活に必要な生活用具に施されたものである。たとえば大和絵(やまとえ)は、12〜13世紀の貴族の住居であった寝殿造(しんでんづくり)の建築装飾として、四季の景色や名所風景に当時の生活を織り込んだものを描いた。日本の絵画が鑑賞芸術としての地位を得たのは14〜15世紀のことで、当初は押板(おしいた)の壁に仏画が掛けられていたが、やがて押板が床の間に変わると、花鳥山水が掛けられるようになった。これも所有者の身分の高さや財力を誇示するための道具としての意味が強い。工芸は歴史的背景のもとに実用的要素が含まれており、手練技巧をみせた道具類、造形芸術の産業化、道具器物に美術的装飾を施すこと、造形的美しさを持つ広義の道具をつくる人間活動など、用途・時代・社会状勢によって重点の置き方が変化する。そしてこのように広い工芸のうちから、技術の進歩につれて工業が独立していった。しかしこの工業は、機械自体の未発育や資本主義の悪い半面の影響を受け、多くの粗悪品を生む結果となった。その批判が、工業意匠の勃興となったのである。あらゆる道具をつくるのが人間の工芸活動だと考えるとき、その広義の工芸はひじょうに広い領域に広がってゆく。そこで便宜上、この広義の工芸を純粋美術(心)・工芸(手)・工業(頭)の三つに分け互いに重なり合わせて、その重複し合っている部面をどの領域とするかという考え方が一般的に行われている。つまり、工業は頭脳のほかに手や心が必要であり、工芸は手のほかに頭脳と心が必要とされ、美術は心以外に頭脳と手が必要であって、要するに何が中心となり基本となっているかで、工業的美術や美術的工業が存在すると同様に、工業的美術や工芸的工業と存在するのである。すなわち工芸とは“美と用”、美的快感と生活用具としての機能性を兼ね備えるものでなければならない。
【工芸の成立】工芸を成立させる直接的要素は、材料・技術・意匠の三つを結合させることである。意匠とは、その時代における社会的諸条件や人々の好みに対する風潮をかんがみ、いかなる手段を講じて目的物を計画設計するかということで、これをデザインとも呼ぶ。陶磁器に例をとると、基本原理は、素材である粘土の可塑性を利用して目的とする形を成形し、火で焼いて硬化させ道具として使用したものであるが、その運営方法は時代によって変わっている。初期における材料の土は、たやすく入手できるふつうの粘土や土を使用した。その後、それぞれ適当な土があることを知り、石を砕いて材料をつくる方法、種々の材料を配合する方法と、材料を生産する技術が進んだ。この背景には、粉砕機械や交通機関の発達も考えられる。成形方法も初めは手でこねていたが、細長い縄状にこねて輪形をつくりそれを積み重ねる方法が考えられ、型に粘土を押しつける方法、轆轤(ろくろ)づくりへと発達して今日にいたっているが、近代になると型に粘土を流し込む成形方法も考えられるようになった。窯の構造の研究が進み高火度を出せたり、火度調節が自由になると、土器から陶器ヘ、そして磁器の製造が可能になった。陶磁器を模様で装飾する技術も、時代の要求から変化し、手描きから印刷へ、あるいは手彫りから型押しや鋳型彫刻へと絵や彫刻の歴史と同じ経路を通ってきている。あらゆる装飾は、それを表現する技術なしには具体的な姿となって現れてこないということである。ことに火の芸術である陶磁工芸は、科学を無視しては成立しない。
【工芸の形態】工芸とは、美と用とが兼ね備わっていなければならない。人間の生活にはいろいろな道具が必要とされ、ある物は加飾的な美しさを求められ、また構造的な美しさを強く必要とされる物もあり、またある物は経済的な制約のもとで美しさを出さねばならず、物によってはまったく自由に美を表現することも許される。そしてそれらの道具を生産する手段は、技術の変遷とともに変わっていく。18世紀後半からイギリスでおきた産業革命による工場制工業が確立されると、それまで手仕事によってつくられていた人間の生活用具が、機械の発達とともに、短時間で大量に、しかも正確につくられるようになった。しかし機械による工業生産であっても、生活用具に対する美意識の問題をないがしろにはできず、そこで、大量生産という前提のもとで形態を決めていくインダストリアル=デザインが必要となった。現代の工芸は、この工業的意義を多く含んだ「産業工芸」、手仕事の盛んであった過去に民衆の日常用具として使用された雑器で、しかも地方的特色のある民具を今日の民衆の日常用具に応用しようとする「民芸」、美術の影響を受けて、個人的作家が美の表現を目的として自由に製作する鑑賞用意味の強い一品制作の「美術工芸」の3種に大別される。
【工芸の分類】過去の工芸は生活用具を生産するすべてを占めており、手と手道具によりつくられた。今日の工芸では、手道具は機械化され、手と手道具による工芸はきわめて特殊なものとなった。しかしその範囲は、実用的な雑具から鑑賞的な工芸品まで広い領域をもつ。技術面からみても完全に手によるものも、機械化されたものもある。材質的には金工・漆工・陶工・木工・竹工・石工・皮革工・染織・草工などの呼称が一般に使用されているが、近ごろは人為材も数を増している。ここで金工を例に、技術的な面から細分すると、成形の技法には大別して鋳金と鍛金がある。鋳金は溶かした金属を鋳型に注入して器物をつくる方法で、中空の器物をつくるには雌型(外型)と雄型(中型)を必要とし、鋳型をつくる方法にも種々の技法がある。鍛金は金属を加熱して柔らかくし槌で打ち、延展・曲折させて成形する技法である。また金属を加飾する方法として彫金・象嵌(ぞうがん)・鍍金(ときん)などがある。一方、陶磁器・七宝・ガラスのように窯で素材を熱加工するものを窯業ともいい、漆工芸のキュウシツ※注1※や蒔絵の技術を塗装という。
【日本の工芸の歴史】[1]仏教伝来以前:わが国で工業が著しく発展するようになったのは、6世紀半ばの仏教伝来以後であるが、仏教伝来以前にもかなりの技術と造形的表現をもっていた。日本の工芸の発生は縄文(じょうもん)式土器がつくられた時代から始まるが、この時代は数千年もつづいた。紀元前1〜後2世紀ごろ、大陸から農耕の技術をもった文化が日本に流入し、弥生(やよい)式と呼ばれる土器がつくられ、大陸から鉄器の文化、つづいて青銅器の文化が入ってきた。とくに、この時代につくられた銅鐸(どうたく)は、日本独特の意匠になり注目される。4〜6世紀には国家組織も整い、大きな墳墓がつくられた古墳時代になる。古墳時代後期には、中国六朝(りくちょう)・朝鮮の影響を受けた工芸技術が著しく進歩をした。金属器では鏡の製作が盛んになり、装身具も優れたものがつくられている。また、鉄の武器類もつくられた。窯業は大陸から新しい技術の須恵器(すえき)がもたらされた。一方、土器も土師器(はじき)に変わり、土師部(はしべ)のような専業的な民部も形成され、単純・簡明な表現の埴輪(はにわ)をつくった。
[2]飛鳥(あすか)時代:仏教伝来から大化改新までの飛鳥時代には、仏教は朝廷や国民のあいだに広く信奉されるようになり、それに伴って、寺院や仏像・仏器・仏具が盛んにつくられた。この結果造形美術の発達を促し、建築物の内外や仏器類の装飾に進んだ技法と表現がみられる。
[3]奈良時代:大化の改新から平安遷郡にいたるまで、朝廷は仏教の興隆に力を注いだため、仏教関係の建築や美術工芸が飛躍的に発展した。また、宮廷や貴族の需要に応ずる工芸も大陸からの優秀な技術の導入により進歩した。この時代の工芸技法は、正倉院に収められている宝物によって知られる。正倉院の宝物は聖武(しょうむ)天皇の御遺愛品、大仏開眼供養に用いられたものを中心にした1万点に及ぶものであり、その種類も多く、調度・文房具・遊技具・儀式具・仏具・楽器・武器・服飾など広範囲にわたる。これらのほとんどは唐様式のものである。
[4]平安時代:平安遷都から約4世紀のあいだの平安時代には、従来摂取した外来文化を基礎として日本的なものを発達させた時代で、藤原氏を中心とする貴族の文化がその中心となった。建築では寝殿造という純日本的な様式が完成し、飲食具・燈火具など生活用具も純日本ふうの様式をもつようになった。また、貴族のあいだに浄土信仰がひろまり、各地に阿弥陀堂(あみだどう)が建てられたが、宇治平等院の鳳凰堂(ほうおうどう)もその一つで、これら阿弥陀堂は極楽浄土をしのばせるため、堂宇の内外にはさまざまな工芸技術が用いられた。これらの工芸品には繊細な感覚を重んじる貴族的な美意識が反映されて、優しく穏やかな情諸あふれる表現がみられる。
[5]鎌倉時代:鎌倉時代は、工芸の上では平安時代の伝統を受け継いだが、武家の世なので、武家の気分を反映して雄健な傾向をおびてきた。工芸品も伝統的な表現形式の上に一種の力強さが加わった。器物の形なども強さや張りのある姿となり、情緒的な面が失われ写実的となった。武家社会のため当然刀剣とその外装、甲冑(かっちゅう)・馬具などの武器・武具をつくる工芸技術も発達した。また、この時代の初めに中国から伝来した禅宗が、その後の日本文化に及ぼした影響は大きい。中国文化の影響は工芸史上にもみられるようになるが、尾張(愛知県)の瀬戸で宋(そう)ふうの焼物が焼かれるようになったのは注目される。
[6]室町時代:この時代の工芸の特色は、禅宗の影響がはっきりしてきたことである。当時の禅僧や武家のあいだでは中国の器物が愛好され、座敷飾りや贈答品として用いられた。これらの工芸品は大陸との貿易などで伝来したもので、当時の工芸の技術あるいは文様、鑑賞上に多くの影響を与えた。また、この時代には茶道が盛んになり、必然的に茶器製作などの工芸の発達を促した。
[7]桃山時代:この時代は、新興武士・町人階級の建設的なたくましい生活意欲を基盤とし、工芸の分野においても豪快・華麗、そして広壮な城郭・邸宅の盛んな造営によって得た自由で活気に満ちた華やかな世界を展開し、工芸史上画期的な時代となった。とくに、漆工の蒔絵(まきえ)による調度品や染織の衣装類は華やかで大胆な文様が多い。こうした華やかな工芸品がつくられた反面、利休により佗茶(わびちゃ)が大成され、それに伴う工芸が盛んになった。とくに、陶芸において著しいものがあり、楽焼・志野・織部陶などが生まれた。また、この時代にはヨーロッパ文化との接触があり、工芸の世界にも多くの影響を与え、新しい技法や文様を生みだし、とくに異国人の指導・注文による漆器も製作された。
[8]江戸時代:江戸時代の工芸は250年余の泰平の世に、町人階級の躍進的な発展に伴い、めざましい展開を示した。工芸のなかでもとくに、陶芸と染織の展開はみるべきものがある。陶芸においては磁器絵が完成され、各地に多数の窯(かま)がつくられた。一方、染織工芸もこの時代の好みを反映してめざましい展開を示し、今日の染織工芸の基礎をつくった。しかし、徳川幕府が封建制度を強化するにつれて、工芸もしだいに型にはまり形式化していった。江戸中期以後、工芸は質的発展はみられないが、量産的な発展はめざましく、興隆する町人の文化的欲望を対象にして、工芸は贅(ぜい)を尽くし、技巧の精緻(せいち)を誇った。江戸末期には、工芸は玩弄(がんろう)趣味に陥ってしまったが、なんといっても工芸が普遍化したのはこの時代である。また一方では、形式や技巧に陥らない作家が現れ、地方諸藩の殖産奨励によって異色ある地方的産業工芸が生まれた。なお、近世において特異な発展をみせたものに民芸品がある。民芸品は農民たちが自家用につくった日常生活用具、あるいは副業的につくりだした工芸品、または専門の工人が、ごく小範囲の地方民衆を対象に生産した工芸品をさすものであるが、地方の特色を強く表している。民芸品は、都市文化を背景として発達した工芸品とは違ったものとなり、素朴で健康的な美しさがある。
[9]近代:明治維新後、日本の工芸は一時混乱の時代を迎えるが、ヨーロッパ文化の流入に伴い、工芸界は洋風化された衣食住の生活用具に、外来の技術と材料を取り入れた。また、ヨーロッパ諸国で開かれた万国博覧会も工芸を発展させる一因となった。しかし明治期の前半ごろは、工芸と工業ということばは混同して使われていた。それは社会が充分に工業化されていなかったためであるが、産業がしだいに機械化・工業化されるに従い、工芸は手と直結する工作道具で造形する世界に、工業は機械による生産の世界へと分かれていった。また近代になって、絵画や彫刻の純粋性が強調されるようになると、使用目的があるという理由で、工芸はほかの造形芸術より劣等であるかのごとき感を与えられた。そこで多くの工人たちは、工芸の地位を絵画・彫刻と同等の位置に戻すために、工芸の姿を借りた純芸術の存在を主張しだした。これを美術工芸と呼び、この傾向は日本では大体明治の中期ごろから顕著となり、これは、19世紀後半にヨーロッパで活躍したジョン=ラスキンやウィリアム=モリスの工芸運動による。ラスキンは産業革命がもたらした機械文明に反対の立場をとり、真の美術は単なる自然の模倣ではなく、自然が持つ美を解釈し表現するものであると、あくまでも自然の美のうちに芸術の美を見出そうと考えた。モリスもまたラスキンの思想を受け継いで、産業革命がもたらした機械産業と大量生産に反対し、人間は自然の美のなかで生活すべきこと、機械文明化していくと自然の美が破壊されること、特殊な人の幸福のための社会組織ではならない、すなわち大衆的全人間的な社会の確立が必要であること、そのためには労働が喜びになり、その労働は創造性を持つようになること、などすべてを総合したところに社会の倫理があり、芸術の倫理がある、と純粋工芸を固持した。しかしモリスの制作品は、ほかの機械による安価な制作品の前に実際的ではなかった。労働階級の生活を啓発するように意図されてきたはずのものが、逆に特殊な人々だけにしか入手できぬものとなってっいた。しかし彼らの思想は多くの人々に受け継がれ、あるいは解釈しなおされて今日に生きている。その直接の後裔が、アール=ヌーヴォーである。1880年代に発し、第一次世界大戦によって終結するにいたったアール=ヌーヴォーは、様式としても運動としても、デザインの歴史上最も想像力に富んだ革新の一つである。知性より情念を重視した流れるような曲線形式を特徴とするアール=ヌーヴォーの目標は、あらゆる応用美術、ガラス器・宝石・銀器・家具・磁器・壁飾り・被服などにおいて、その時代と矛盾しないデザイン感覚を構成する様式を探究することであった。つまり、科学と技術の進歩を芸術の世界にひき入れ、造形美術と応用美術の区別をなくそうとしたのである。大正時代に入ると、第一次世界大戦がもたらした好景気によって、量産的・産業的な工芸が盛んになるとともに、鑑賞本位である一品制作の工芸にも優れた作家が現れ、各分野で活躍した。そして19世紀におこったセセッション(分離派)やアール=ヌーヴォーの運動が、20世紀前半には、ドイツのバウハウス運動に発展したのである。1919年、建築家ヴァルター=グロピウスが中心となって、ワイマールに総合的な造形芸術学校が創設された。その理念は、建築のもとにすべての造形活動を総合し、絵画・彫刻・建築・諸工芸が一体となって統一芸術を創造することであり、また芸術と産業とを結び合わせて、近代社会に適応した新しい芸術家を育成することをめざした。バウハウスは、このような新しい造形理念にもとづいた教育機関・研究所・工房である。そこでは現代科学工業の裏づけの上に造形や生産が考えられ、あらゆる機能や材料の実験が科学的に進められた。ドアのハンドルや湯沸しなどの日常器具が、機械生産で、美しくしかも使いやすくつくられる可能性を示したことは、近代工芸や工業に対する大きな寄与であった。しかしこの傾向は民族主義を主張するヒトラーの思想とは対立するものであったので、国家の弾圧が加わり、教授陣はイギリスやアメリカに散っていって、これがかえってバウハウスの主張を世界に広めることとなり、工業デザインの重要性が次々と理解されることとなった。わが国においては大正の末に、鑑賞本位の工芸に対し、民衆生活に密着した工芸・民芸運動が盛んになった。これはラスキンやモリスの工芸運動の影響のもとで、とくに柳宗悦によって理論づけられ、特定の作家の作品という意識でつくられる一品工芸や、特定の階級の人々を対象とするような貴族的工芸とは違い、手仕事の盛んであった近代工業成立以前の職人技術を今日の民衆的日常用具の製作に生かそうとする考えである。第二次世界大戦後には、産業工芸、手加工に依存する度合いの強い陶磁器・ガラス器・各種の装身具のデザインなどのクラフト、あるいは新しい立場の装飾を求める工芸、伝統の精神と技法を尊ぶ工芸など多彩な動きがみられるが、これを工芸の上にどのように反映させ、表現するかは、今後の工芸作家の芸術意識の問題である。
【大量生産時代の工芸】工芸は生活のうちから生まれ、その生活を支えていくものである。現代のように機械化の進んだ社会では、失われつつある人間性をいかにして取り戻すかを考えねばならない。ゆえに美術は人間生活の基礎構造として考えなければならないのである。日常使用の道具類も、単なる機械や装飾としてではなく、人間の精神生活と物質生活をうまく融合させるものとして機能しなければならない。現在、機械生産の規格品が科学や機械の発達によって美しく合理化され、手工芸の気分的特殊性を侵しているかのようにみえるが、しかし機械製規格品の勢力増大にも自ら限度が考えられ、それら同一型の個性が認められるはずである。また、機械製規格素地を手細工で加工することもいろいろな領域で行われている。最近一般人のあいだではやっている工作や手芸も、現代社会における工芸の新しい意義と考えるむきもある。つまり工芸は、どのような生活を望むかによって変化するものである。人間生活の道具としての工芸が発達するためには、まずその道具を使用する消費者の生活の目を、よりよく高めねばならない。
〔参考文献〕マリオ=アマヤ、斉藤稔訳『アール・ヌーヴォー』1976、パルコ出版
